日曜の午後、雨があがるのを見越して武庫川に出た。
が、走り始めた途端、雨脚が強まった。
今更、引き返せない。
天気の回復をあてこんでそのまま走った。
急に秋めいて風がひんやりとし、そのうえ雨。
人影はなく、視界には勢いを増す川の流れと雨滴とわたしとともに雨に打たれる草木のみ。
寂寥があたりを覆い、日常の穏やかな時間の流れが後景へと退いていった。
次第、一介のホモサピエンスとしての感覚だけがその場に残った。
ついこの間まで「わたし」は原始の野を這う寄る辺もない一個体だった。
いまや戦いは比喩の世界に属する概念となったが、当時は、生きることそのものが戦いだった。
危機の渦中にあって生死の分岐に直面し続けるのが日常。
そこに身を置いていたのだから、あのとき「わたし」は鉄人だったと言えるだろう。
雨のなか走って次第に意識が変性し、かつての「わたし」の姿が示唆された。
まもなく意識の合間にインパクトある気づきが訪れた。
カラダを鍛えれば、あの鉄人がこの身に還ってくる。
そうなれば、都市生活のストレスなどそよ風みたいなものだろう。
仕事を前にしては何より休息が大事。
そう心がけていたが、この日武庫川にチラと姿を現した鉄人は強化こそが生きる道だと教示した。
そんな交流を反芻しつつ風呂をあがると、家内が帰宅した。
ワインを飲み焼いた肉を食す家内の前に座って、わたしも肉を頬張った。
原始への回帰には赤肉が不可欠。
眼前に起こるすべてが符合し、わたしをひとつの道へといざなっているとしか思えなかった。
この日も家内の口数は軽く二万語を超えて出た。
買物途中でお茶休憩しているときのこと。
家族連れが前の席に座って3歳くらいの男の子と目が合った。
丸坊主でTシャツがブカブカで言葉が拙い。
うちの長男が小さかった頃にそっくり。
家内はそう思った。
長男が3歳の頃、生まれたばかりの二男の世話に忙しくあまり構うことができなかった。
記憶もおぼろなそんな時代の光景が、そのチビっ子の姿の向こうにありありと浮かんだ。
週末になると、わたしの父が長男を迎えにきて遊んでくれた。
クルマで父がやってくると、長男は大はしゃぎした。
家の前の路地を駆け、歓喜の声をあげてクルマに向かった。
そんな小さな背に向け、真向かいに住むおばちゃんが声をかけてくれた。
いいねえ、いつもおじいちゃんが迎えに来てくれて。
行き先は毎回、交通科学博物館だった。
電車が好きだったからそこが長男にとって最上の場所だった。
珈琲店でそんな過ぎし日の一場面について振り返り、家でワインを飲んで同じシーンを振り返り、いつしか懐かしさに目がうるみ、家内はその場で息子に電話をかけた。
何かあったのか。
そんな様子で長男が電話を受けた。
特に用事はないとの家内の言葉に息子は拍子抜けし、青年にありがちな億劫な声音に変わったが、ちゃんと受け答えし、この日ラグビーの試合で活躍した旨、家内に伝えた。
家内はそんな話に喜んで息子の言葉を一つ一つ噛み締めた。
傍で母と子の会話を耳にして、これも符号とわたしは感知した。
鉄人の系譜の先の先、長男も二男も日々強靭化の道を突き進んでいる。
そう言えばうちの親父も頑健そのもの。
わたしだけがなまっちょろい。
オセロの黒に挟まれた白のようなもの。
系譜に整合するよう、いまこそ意を決するときだろう。
鉄人をこの身に呼び戻すため、秋の好日、まずは走り込みから始めよう。
しんみりとする家内を他所に、わたしはひとり鉄人への憧憬を更に強めた。