秋の涼風が窓から吹き込み、芯まで届いて夢見心地。
ソファに寝そべり午後の休息を満喫していると野鳥が鳴いた。
窓の外に目をやるが鳥の姿は見当たらない。
その代わり電柱に防犯カメラが3台も設置されていることに気がついた。
ネットで調べると、市が設置を推し進めいまやそこら中が防犯カメラだらけになっていた。
教室のあちこちに先生がいるようなもの。
不心得者には窮屈なことこの上ない。
視線を天井に戻し、まどろみのなかに戻る。
まもなく夢か現か、昔のことが頭の中に浮上した。
その昔、実家でのこと。
裏口から中に侵入しようとする人影があった。
たまたま母がその瞬間を目にしたから、ありったけの声を発し、人影は外へと逃げた。
実家は下町の密集地帯にある。
裏の通路は細く狭く、人がカラダを横にしてやっと通れるくらいの幅しかない。
夜、そんな入り組んだところをうろうろする一般人などいやしない。
下手に鉢合わせすれば、何をされたか分からない。
思い出すだけで肝が冷える。
頭の中、その人影が間近に迫る。
首筋に刃を突きつけられ、金を出せと脅される。
ない、ないものはないと説明しても通じない。
震え慄き命乞いするわたしの姿がそこにあった。
ああ、息子たち。
父はイーサン・ハントでもジェームズ・ボンドでもなく、泥棒ひとりに怯懦する気弱なおっさんに過ぎないのだった。
恐怖に煽られ、意識は急速にまどろみから覚醒へと向かっていった。
日頃、そんな人影のことなど考えない。
これを太平楽というのだろう。
撃退のための武器を常備しない丸腰に身がすくむ。
何か武器になるものは?
頭を巡らせた。
バット、ゴルフクラブ、ホッケーのスティックが浮かぶが所詮これらはスポーツ用品である。
続いてボールペンにカッターナイフ、そして三角定規が登場した。
ああ文房具ではないか。
まるで役に立たない。
目には目を。
刃には刃を。
備えあればと辿って至る結論はそうなるより他なかった。
防犯カメラは犯罪抑止を趣旨とする。
だから安心すればいいものを、わたしは自らの戦闘能力の欠如に思い至ることになった。
そのように日頃は暢気に暮らしているが、ふとしたときに自らを取り巻く危機の身近さを告げ知らされる。
先日は飛行機に乗った際、命に隣接する死を垣間見た。
窓から地上など眺めなければよかった。
わたしは高所恐怖症。
目をやった途端に身がこわばり、わたしは反射的に足を踏ん張った。
高度7000m、時速800km。
底が抜ければひとたまりもない。
足元の床と接するのは奈落。
首に刃いう状況と何ら変わりがない。
そんな恐怖の只中、心を慰めてくれたのは確率だった。
飛行機が落ちる確率はゼロに近い。
つまりその場において、足の踏ん張りといった自助など気休めに過ぎず、確率こそが頼みの綱なのだった。
まばらではあっても弾丸が飛び交うなか、たまたま弾に当たらずわたしたちは明日へと漕ぎ着けている。
命中確率は低いと言えど、つまりはロシアンルーレットをやっているも同然であり、その現実を直視すれば恐怖に狂ってもおかしくない。
平常心を保つには確率がゼロに近いと知って、かつ確率の世界を司る神さま仏さまにすがる他ない。
人が信心するのは当然という話なのだった。
防犯カメラがそこにあると思うより、広角の3つ目の怪鳥が守護してくれる。
そうイメージする方が安心感が大きい。
いまだに人は肝心なところでテクノロジーより非合理な観念の方に親和するということである。
ちなみにうちの家の玄関には沖縄で買ったシーサが鎮座している。