電話が鳴るたび、苦しいような緊迫感に捉えられた。
状況を報せる内容のなか少しでも希望を見出そうと努めるが、楽観できる要素は次第になくなっていった。
それでも強く念じ続けた。
母は助からなければならない。
その日は朝から雨が降っていた。
季節は初夏、場所は芦屋。
クルマで地下に入った直後、電話が鳴った。
受けたがすぐに通話が切れた。
大急ぎでクルマを停め地上へと駆け上がり、折り返した。
医師の用件は延命措置についてだった。
いよいよとなったとき、どうするか決めてくださいと医師は言った。
途切れることなく雨は降り続き、雨音を耳にしつつ現実と向き合い、「苦しまないようにしてください」とだけわたしは伝えた。
その日の午後、画面越し母と対面した。
家族皆がそれぞれの場所からひとつ画面のもと集まって、各自が母に声を掛けた。
息子たちも東京から話しかけた。
眠っていても声は届く。
そうに違いないと信じて、思いつくままわたしは母に語りかけた。
入院し二週間になろうとしていた。
母に言った。
早く退院してゆっくり風呂に入ろう。
母はいま良き夢のなかにあり、そこにわたしたちの声がありありと響き渡っている。
そう信じるから余計な心配はさせぬよう涙をこらえた。
が、ひとりが泣いて堰を切ったかのように全員の涙が止まらなくなった。
その二日後の昼、病院からの電話が鳴った。
わたしは業務先で面談をしている最中だった。
普段どおり仕事に集中しようとするが、とても平静ではいられなかった。
何とか業務を終えてすぐ、清水駅へと向かいながら折り返しの電話をかけた。
厳しいといった話ばかりずっと聞かされていたから、「やや持ち直した」と聞いてその場でわたしは小躍りした。
信じたとおり、母は治るのだ。
そう思って、ほら、やっぱりと喜んだ。
その足でわたしは神社に向かった。
神仏にすがることくらいしかわたしにできることはなかった。
旧事務所の近くにある馴染みの神社に足を運んで、お礼かねがね手を合わせ母の快癒を乞い願った。
その晩はぐっすり眠った。
だから携帯への着信に全く気がつかなかった。
携帯につながらないから家の電話が鳴った。
深夜に鳴る電話の音は異様なけたたましさだった。
リビングへと駆け下りて電話を受けた。
父からだった。
母が亡くなったと聞かされた。
事態がうまく呑み込めないまま、深夜の高速を大阪へとひた走った。
病院のガラス越し母と会った。
眠っているのではなかった。
母の生涯が幕を閉じたのだと分かった。
全く楽ではなかったであろう母の人生を思って涙が止まらず、ただただ泣き咽んだ。
母がこの世を去ったとき、わたしは眠りこけていた。
最後の最後まで、わたしは呑気な息子であった。
機会があればいつか向こうで謝りたい。