昼食を終え、夫婦でマッサージを受けることにした。
家内は行きつけになっている西北のゴッドハンドの元へ、わたしは野田阪神に向かった。
店の雰囲気をそれなりに必要とする家内と異なり、わたしは雰囲気などどうでもよく実質重視。
野田阪神では豪腕のおばさんが丁寧に揉んでくれる。
いまどきのセラピストと言うより按摩師といった趣きで、いろいろ較べそこが最良と感じている。
地元の老夫婦がチャリンコで店にやってくるような気安さもまたいい。
先週と同じ午後3時。
カラダを預け、この日はマッサージの間、カラダに何が起こるのか自身の内を注視した。
ひと揉みひと揉みが心地よく、ふっと安堵の声がつい漏れる。
やはりマッサージはたまらない。
血管が水路のように全身に張り巡らされている。
主流から無数の支流が方々に伸びて、その流路は極めて細い。
揉まれるごと流路の淀みが押し流され、新鮮な血液が隅々まで行き渡る。
凍った枯れ地に温かな雨が降り注ぐようなもの。
だから、時に痛いがその痛さも含めて全身がその雨に歓喜する。
内を注視する目は、次第、さらに深奥へと及んでいった。
仕事については「ほどほど」でいいとわたしは思っていたはずだった。
そこそこの暮らしで十分で、なにも仕事に追い回されることはない。
その考えはいまも変わらない。
が、仕事は増え続け、仕事が暮らしの過半を占め、結局、仕事に追い回されている。
ところが不思議なことにそれで不本意ということはなく、この煩忙を喜んで意気に感じている節もある。
「ほどほど」でいいという思いより深い場所に、異なる気持ちが横たわっている。
実は、そういうことなのだろう。
言わば「求められたい、応えたい」
そういった気持ちが確固として潜んでいるから「ほどほど」といった意志薄弱な思いは方便みたいなものと化していく。
だからもし自身を取り違え、「ほどほど」を本当に実現させてしまえば、うら寂しい思いで過ごす人生となり焦燥感に駆られるといったことになることも容易に想像ができる。
このように自身の本質に気づいてしまえば話が早い。
「ほどほど」といった表層の思いなど歯牙にも掛けず必死のパッチ、声が出なくなるまで歌って歌って歌いまくることが定めと観念するだけのことになる。
そう考えると、せめて女房にだけは何不自由なく楽をさせてあげたいとの思いも込み上がる。
しかし、「何不自由なく楽」という境地自体が夢幻であるともとっくの昔に気づかされている。
そんな安楽の地はどこにも存在せず、近づいたかと思えば何かが降って湧いて梯子を外される。
過去を振り返ればそうでしかなく、これまた観念すべきことだと言えるのだろう。
だから折々、カラダを預けて揉んでもらうという自身へのいたわりが欠かせない。
浮かんでは消えるうたかたの意識と異なり、カラダは文字通りカラダを張ってこの世の真実を真正面から受け止めている。
苦がなければ無も同然であり、快も苦もカラダあってこその話であって、相伴ってこそ持ちつ持たれつ両者が存在する。
その並存の蝶番の役割をカラダが果たしている。
そう思えば、なんと愛おしいことだろう。