当てに行かず振り切る。
そんなスイングに喩えられるだろう。
実に歯切れがいい。
うろ覚えなフレーズや言い慣れない発音であっても迷いなくきっぱり言葉にして発する。
口ごもらないからリズムよく、だからおそらく意味が通じて会話がスムーズに運ぶ。
家内の英会話を横で聞いてそう感じた。
自由に会話を楽しみ相手と意気投合したようで、この日もインスタのアカウントを交換していた。
このように家内のインスタはもっぱら遠くの方を交流の対象とする。
一種のポリシーと言えるのだろう。
身近な人とはSNSでやりとりしない。
何を食べた、何を買った、どこに行った。
そんな話を身近に開陳するのは、はしたない。
家内の考えは一貫している。
インスタを見ると落ち込む。
先日、新聞にインスタの弊害についての記事が掲載されていた。
分かり切ったこと。
家内はそう言った。
結婚当初は天気で言えばずっと冴えない曇天が続いた。
不遇な時期を潜り抜けてきたから、「落ち込む」という気持ちが家内にはとてもよく分かる。
遠くの誰かの発信であれば自然な関心を向けられる。
しかし、身近な誰かのキラキラを見せつけられると不遇感が倍加し、頭上を覆う暗雲が増すばかりとなる。
誰だってそんな気持ちが分かるはず。
それなのに、あえて見せつけるなどなんて意地悪な話だろう。
家内はそう思う。
そんな話をしつつ並んで鍋をつつき、二人でどれどれとインスタのキラキラを眺めてみた。
たまに目にするインスタのフォロワーが一気に急増し千人超になっていたので驚いた。
まったく中身のない投稿ばかりであるから千人というのは変である。
それでフォロワーの内訳を見て更に驚いた。
氏素性不明な外国人アカウントがずらりと並んでいる。
で、腑に落ちた。
いまフォロワーは廉価で手に入るのだった。
しかし一体なぜ。
シークレットブーツやプチ整形といったものと同根の話なのだろう。
どんな手を使ってでも自らを良く見せたい、そういう人が実在するのだった。
無邪気にチラと見せたかのような姿が実は計算尽くで、そこに小ウソも動員されて投稿が積み上がっていく。
そんな輩が複数集まれば、まるで狐と狸の化かし合い。
なんとバカバカしい話だろう。
さもしくもあさましいチープなキラキラが濫造されて、そこに映し出されるのは、実は不遇感に苛まれた物悲しい心象なのであろうから、見れば落ち込むというのも、やはり当然の話なのだった。