今日も明日も明後日も同じことを当たり前のようにやり続ける。
それを真面目と言うなら、わたしたちはバカの一つ覚えの如くその通りで真面目の度を越し生真面目とも言えるだろう。
地元で用事があったため月曜は朝から自宅で仕事を行った。
家内はヨガに出かけ、昼過ぎに戻って料理づくりに勤しんで、夕刻、揃ってジムへと出かけた。
夕飯は肉とサンマの塩焼きといった簡素なメニューで済ませ、わたしはノンアルで過ごした。
明けて火曜。
わたしは朝から業務先へと向かい終日出先を転々とし業務して、家内はクルマでヨガへと出かけ午後に帰宅し料理に勤しんだ。
そして夕刻、揃ってジムへと出かけ前日同様泳いで筋トレしてサウナに入って帰宅した。
夕飯は肉とスープでわたしはこの日もノンアル。
このように変わり映えしない日々を地味にたんたんと積み重ね、子らが巣立った後は可動域が多少は増えたものの、夫婦二人で引き続き至極シンプルな暮らしを送っている。
そんな話を食卓でしながらふと思った。
真面目というのは地味で暗くて華には欠けるが、何の取り柄もない人間が人生を渡り切るうえで必須の救命胴衣のような役割を果たすのかもしれない。
毎日毎日早起きして家内は食事を作り、一日中食事を作り、毎日毎日早起きしてわたしは仕事をし、一日中仕事し続けた。
ついこのあいだまで一日も欠かすことなくそうであり、それが普通の光景だった。
息子たちが暮らす家にダラダラと寝転がっている者はなくチャラチャラ遊んでほっつき歩く者などいなかった。
いま息子たちは東京で暮らしている。
離れてみてよく分かる。
息子たちもその真面目を浮力になんとか各自の世界を生き抜いている。
そして二人はしぶとく手堅くこの先も渡り切っていくことだろう。
そう思えば夫婦のバカの一つ覚えも報われる。