五十を過ぎて、差が歴然となる。
そう感じる。
若い頃は多少差を感じても、まだどんぐりの背比べの範疇に留まる。
だから実感が伴わない。
しかし、みるみるうちに差が開き、気づけばもはや別世界の住人というくらいに乖離する。
同じ時間を生きてこうも違うのか。
出るのは苦笑いばかりである。
例えば星光33期の面々。
彼ら専門家集団はいままさに油の乗り切った時期と言え、これまで以上にますます加速し先へ先へと進んでなんともまあ輝かしい。
一方、一般に五十と言えば下降線の入り口で、賃金は頭打ちとなって定年が間近に迫り、かつ退職金は大して望めず年金も期待薄となれば心細いこと甚だしく、人生の切なさの何たるかが身に沁みて、涙のひとつでもこぼれ落ちるといったようなものだろう。
そんな五十を身近に見比べて、息子たちが何も感じないはずがない。
ほどほどのところで受験勉強に方を付け、未練なくさっさと大学生になったことは正解だったと言えるだろう。
余力が反動を招くことなく余裕を生んだ。
要は自分。
浮くも沈むも自分次第。
若くしてそんなシンプルな達観に至ったからこそ、たんたんと日々努力するのが当たり前となり、だから十代のときより二十代の方がはるかに頼もしく、この分で行けば、三十、四十と積み上がり、五十で身に備える凄みは相当なものだろう。
ああ、わたしももっと早くから頑張っていれば。
そう思うが、もはや後の祭り。
走力で負け筋力で負け努力でも負け、息子との差は今後もますます歴然なものとなっていく。
しかし、こちらの方の乖離については単に笑みがこぼれるだけのことである。