仕事の「合間」といった時間がここ最近増えてきた。
昔は仕事を始めれば仕事しっ放しで仕事が終わるまで仕事が途切れるということはなかった。
いま、仕事がぽつりぽつりといった感じで「仕事」と「合間」が並存していて、手を休めるには長いと思える空き時間にしばしば恵まれる。
すでに五十を過ぎたからちょうどよく、いまも昔のままだとすれば想像するだけで気が塞ぐ。
これも天の計らいか。
なるほどなんでもうまい具合にできているものである。
この日、仕事に一区切りがついて、さてこの後どうしようかと思ったところで実にタイミングよく家内に呼ばれ、梅田のヒルトンホテルへと足を運んだ。
リラクゼーションを受け終えて家内はいつにもまして元気でぴかぴかだった。
そのままうめだ阪急に連れられて、息子らのために取り置きしてあったセーターを試着した。
家内の見込んだとおりジャストフィットだったから家内は更にご満悦でぴかぴかの度が倍増しとなった。
そして今度はその足で心斎橋へと向かった。
息子らが所望したというグレイトチキンを買い、これが結構な重量であったから駆り出された意味がとてもよく理解できた。
昼食をともにして、本町のヨガスタジオ近くに停めてあったクルマに乗り込み、お役御免となったわたしは事務所まで送り届けられ、家内はこのあと引き続き食材の買い出しをするというからなんと元気なことだろう。
わたしは業務に戻った。
が、気分がしっくりこない。
胸に少しばかり呵責の念が生じていることに気がついた。
それでわたしは「合間」について考えることになったのだった。
合間の時間をどう使おうが自由である。
運動や読書、映画や買物、そして合間が長ければそこを旅行に充てる。
何をしようと誰に咎められる話でもない。
が、一体何なのだろう。
自身の内で軌道修正を促すかのような、かぼそい声が鳴り止まない。
そしてまもなくわたしは思い当たった。
この声はあの声。
中高生の頃のこと。
勉強しないといけないのにさぼると決まって、こんな風に気が咎めた。
今と異なり不真面目な十代を過ごしたから、当時のわたしは毎日のように自責の念に苛まれていた。
両手で耳を塞ごうが中高の時代に内に宿されたあの声からは逃れようがない。
働きとして孫悟空の頭を締め付ける輪っかみたいなものである。
合間にちょっとサボっただけでこうなるのだから、やはりわたしには遊んで暮らすなど土台無理な話。
真面目の引力圏におとなしく身を置いて、輪っかが締まらないようあくせく労務に励むほかないのだろう。
仕事がすべて片付いたのならいざ知らず。
自由とほざくには百年早く、仕事の合間を埋めるのは、仕事であるべき。
輪っかが導く結論は至極単純なものだった。