運動に励み掃除もこなした。
そんな充実の土曜日を過ごし、ジムを終え家で夕飯の時間を迎えた。
家内と並んで鍋をつついて、家内の話に耳を傾けた。
同じ料理教室に通ううら若き女子の話になって、女子の子どもたちがまだ小さく可愛らしく、そのインスタを見ながら家内が同じ頃を振り返った。
うちの息子たちが小さかったとき、わたしはまだまだうだつあがらず生活に余裕がまったくなかった。
比べてその若き女子は端から富裕と見えて、インスタから伝わるその暮らしぶりは豪奢で、わたしたちとは身分さえ異なると見て取れた。
どの断片をとっても差は明瞭だった。
たとえば七五三となれば家族揃って和服で正装し、節句に飾る雛人形や五月人形もそれはもう立派なものであり、そんな断片が何不自由ない暮らしの何たるかを如実に物語っていた。
うちの七五三など普段着でのお詣りだったし、節句にしても幼稚園で工作した可愛らしい鯉のぼりが飾られる程度だった。
わたしたちには手の届かない、絵に描いたような幸福を目の当たりにし続け、わたしは家内に苦労させたことを侘びたいような気持ちになった。
人生はとんとん。
誰であれいろいろなことが降りかかり、様々な事情を抱えている。
そしてありとあらゆる苦闘の涯て、やっと死によって解き放たれる。
そういう意味で誰もが同じ境遇にあって、その末路を思えば生きることは辛く切なく物悲しい。
そんな話をしたところでやっかみみたいになるから、わたしは何も言わず、おもしろい映画があるらしいと言って話題を変え、追い詰められたリングのコーナーからの脱出を図った。
どれどれと家内が映画の予告編に目をやって、ようやくわたしはインスタに端を発した昔の苦労話から解放された。
この日、わたしは60分走って、家を隅から隅まで掃除し、ジムで45分ぶっとおしで泳いだ。
カラダを動かすと、水がおいしく空気がうまいと感じられる。
健康で元気であればそれで十分と母親に言われて育ったから、こんな喜びを享受できるだけで桁違いに幸せだと素直に思える。
それで一緒に楽しく過ごせる人がいて、特に心配事もなく日々を送れるのであれば、それだけでメガトン級に幸せと言って間違いない。
それなのに、彼我を較べて何か気持ちが沈むのだとしたら、それこそ大いなる取り違えという話だろう。
人生を大事に思うなら他所様のことに目を奪われず、自分由来の肝心要に目を向けなければならない。
インスタが内包する反幸福の毒は侮れない。