KORANIKATARU

子らに語る時々日記

誰であってもよく誰になるのも自由

先日、東京を訪れた。

その二日目の夜、雨のなかタクシーに乗って広尾に向かった。


店は駅のすぐそばにあった。

家内の友人がそこで働いていた。


友人と言っても、家内が会ったのは一度きりのことだった。

丸の内のヤウメイで家内がひとりで食事しているとき、そこでアルバイトしていたのがデニスで、親切にいろいろと話しかけてくれた。


それがきっかけとなってSNSを通じて交流が続き、上京した際には転職先の店を訪れると約束していたのだった。


いまデニスはキューバンバーで働いていた。


店に入ると客はだいたいが外国人だった。

和気藹々とした雰囲気のなか、さすが家内は気さくにいろいろな人と言葉を交わすが、わたしはこういった場では借りてきた猫のようになる。


しかし、皆が楽しそうに過ごすなか仏頂面して孤立するのも大人げない。

だからお酒をあおって、家内と同様、誰彼となく気軽に話して楽しむことにした。


が、思いと裏腹、言葉がついていかない。

英語を口にしたのは何年ぶりのことだろう。


言葉が不自由であるから「言いたいこと」と「言ってしまうこと」に乖離が生じる。

もどかしいが、気にしていると話せない。


そのうち、ほんとうのことを話そうとの枷が外れた。


どのみち、ここの誰とももう会わない。

そしてどのみち、ここではわたしのことを知る者はない。

つまり、ここでわたしは誰であってもよく、その気になれば誰にでもなれるのだった。


要するに一種の劇場と言え、自らを規定する枠組みを取っ払ってしまえば、カラオケで好き勝手に歌うようなものであって結構愉しい。


そんな境地に至ってなるほどと合点がいった。


素性もバックグラウンドも持ち物もうまく行ってる風な生活感もすべて小ウソで塗り固めたような人がいてそんな人物に違和感を覚えていたが、突如謎が氷解したのだった。


その人は劇場を生きているようなものなのだ。


だから小ウソは単なる舞台道具でしかなく、肝心なのは、演じ切りそうでありたい姿の方であり、小道具に目を奪われていては、本質を見誤ってしまうことになる。


そしてその演技を本人が喜びにすればするほど、優しい周囲もそれを後押しし、その受発信の共同作業が信憑性を超えていく。


何か悪企みをもって誰かに損させる訳ではなく誰に迷惑をかけるでもない。


ぜんぶ嘘だと知る者が現れれば、その舞台自体がぶち壊しとなってしまうリスクはあるが、そのスリルがまた演技をさらに迫真のものへと研ぎ澄ましてゆく。


どのみち言葉をはじめとする表現など多かれ少なかれ不完全であり、ほんとうにほんとうのことなど伝えようがないのであるから、ほんとうのことについて誰であれ五十歩百歩だということになる。


であれば、そもそもが不完全なほんとうらしさに目を奪われるのではなく、完全にそうでありたいと熱望する姿の方に目を注ぐ方が高次の真実に出合えると言えるのではないだろうか。


だから、そうでありたいと元気溌溂と生きている人に、「嘘くさ」などと野次るのは甚だしく野暮ということになる。


ここは、なりたい自分になる劇場。

そう捉えればその人物の方がはるかに正直者と言えるだろう。

2023年4月19日 朝食

2023年4月19日昼 谷四 得正

2023年4月19日 女房から写メ ヘッドマッサージ後たこ焼き

2023年4月19日夜 ジム後ノンアルで夕飯 糠で灰汁抜きした筍と牛肉の炒めもの,塩と昆布でしめた鯖きずし