春分の日を過ぎて、日に日に日が高くなり、降り注ぐ日差しもまた強くなっていく。
日中は汗ばむほどで、だから家内がアロマを調合し携行用のスプレーを持たせてくれた。
ひと吹きすれば、微風にそよぐ新緑みたい。
爽やかな薫りが立ち込めて、そこに含まれるミントの効果で鼻のとおりもよくなってますますいい感じで匂い立つ。
家内がアロマに関する資格を取得したのは何年前のことだったか。
家族に恩恵をもたらしてかなりの年月になり、いまもそれが息子たちとのコミュニケーションの1ツールになっている。
家族の疲労回復を目的に、当時たまたま縁のあった耳つぼマッサに家内は取り組んだ。
速習で修得し、施術にアロマもアレンジすれば効果絶大と知って、それでアロマについてもかなり熱心に勉強することになったのだった。
それがわたしたち家族に喜びをもたらし、結果が出ればもっと意欲の湧き出る家内であったから仲間を募ってイベントなど開催し、数多くの人にアロマを使って施術しそこそこの反響を得た。
誰かの役に立つことは喜びだった。
施術を通じどれほど世の中の人が草臥れ果てているか家内は目の当たりにしたから、なおさら役に立てることを嬉しく感じた。
役割を見い出せば積極的な家内である。
だからあるとき隣町の芦屋で主婦の集まる会があると聞いて、家内は身を乗り出した。
人を介し主宰者の承諾も得て、あとは実践するのみと家内は意気揚々とその場に出かけていった。
ところが、伝達がうまくいってなかったのだろう。
そこにあったのは木で鼻をくくったようなすげない対応だった。
優雅にお茶してくつろぐ芦屋の主婦らを遠くにみて、まるで御用聞きのごとく土間にて家内は様子をうかがった。
しかし、一向に声はかからず、何かコミュニケーションの糸口になるような助け舟もなく、それでもガッツある家内は所在なくもしばらくそこに滞在し、しかし増していくのは気詰まりな雰囲気だけで、結局、家内は静かにそこを去っていく他なかった。
最初にあった意気揚々は木っ端微塵となって跡形もなく、家内の後を追うのは意気消沈で、一歩ごとその消沈が重くのりかかり、息も苦しくなるほどだった。
そんな話を家で聞き、わたしは言った。
とてもいい経験になったのではないだろうか。
わたしたちは日頃、ほんとうにいろいろな人に大事にしてもらっている。
わたしの友だちたち、家内の友だち、ママ友、近所の方々、数え上げればきりがない。
しかし世の中には、人が粗末に扱われるようなシチュエーションが掃いて捨てるほどもある。
それをわたしたちは知っているようで知らない。
その方々も、異なるアプローチで接していたら、たとえば学校やラグビーといった接点などがあれば、それなり尊重もしてくれただろうが、なにやら得体の知れない施術が前面にくれば眉をひそめても致し方ない。
選民意識が生き永らえるにはそこに捧げられる賎民が欠かせない。
われら下々の民。
そこを原点と思えば、日頃、普通に接してくれる人に対しても感謝の念がわくし、誰か人に対して優しく接しようとの気持ちもわく。
基準は低く、喜びは大きく。
だからこの経験は儲けもの以外の何ものでもないと言えるだろう。
アロマスプレーをひと吹きするたび、遠い昔の記憶がよみがえり、香りによってさらに記憶が強まっていく。
喜びの大きい毎日を過ごしている。
そんな実感が込み上がる。
なにしろ基準は低い。
だから嫌な思い出に対しても、それがあればこそと感謝の念が湧いてくる。