では、食事に行こう。
みなを促し、わたしは浴衣とスリッパのまま部屋を出た。
息子が言った。
ホテルやのにスリッパでええの。
わたしは言った。
温泉ではこれが正装になる。
修学旅行のときのこと。
息子はスリッパのままホテルのレストランにずかずかと入って、数学の教師に大声で詰め寄られた。
おまえアホか。
ここはホテルやぞ、すぐ履き替えてこい。
星光出身のこの数学教師は口は悪いが、面倒見はいい。
だから怒鳴ってきても、それでわだかまりが残ることはなかった。
それに息子の数学力について一目置いてくれていた。
息子はしばしばその先生に声を掛けられた。
「おまえの数学の爆発力はすごい、答案からがんがん伝わってくる」
誰だってそんな風に褒められたら悪い気はしないし、そんな言葉を本人はもちろん親だって忘れはしない。
長男も西大和の担任の先生に言われたことがある。
学力が非常に高い。
地頭ピッカピカ。
二男もそうだが長男だって数学がとてもよくできた。
だから理系に進むという選択肢もあるにはあったがともに文系を選んだ。
医者になるのでなければ理系はやめた方がいい。
父としてわたしはそう助言し、理系分野に興味があるならいざ知らず、特に興味を持たない彼らの背を文系の方へと押す形になった。
わたしが高校生だったときのこと。
物理の中尾先生が板書する手を止め、突如振り返って言ったことがあった。
理系で金持ちになれるんは医者だけやで。
そのあと長い年月を過ごし、その言葉が真実であるとわたしは思い知った。
ごくごく典型的な理系就職者の年収は文系就職者の半分、下手すれば3分の1といった低いレベルに留まるのではないだろうか。
もちろん医者とは比較にならず、その年収を開業医なら一ヶ月で稼いでしまうと言ってもホラにはならない。
それなのに学校現場などで理系が優越するかのような思い込みがまかり通るのはなぜなのだろう。
学校や塾といった閉じた世界に多数居住する「世間知らず」がそんな雰囲気を作り出しているからなのかもしれない。
偏差値的な視点しかなく、特に数学ができれば優秀といった価値観が醸成されて、その狭く偏った常識で優劣を競ってそれがすべてと思い込む。
しかし、世間で繰り広げられているのは、偏差値競争という単一の競技ではなく、いわば十種競技のようなものであり、そこは総合力があってはじめてなんぼという世界ということができる。
そのような文理の別など超えた場所で「数学ができます」といったところで、そんな優越感など実務上、何の役にも立たないだろうし、むしろ稼ぎの足を引っ張るネガティヴ要素になるのではないだろうか。
地頭ピッカピカであってさえ、それが最大の強みになる訳がなく、何かの足しになる程度の話でしかないということであり、数学の爆発力という言葉で言えば、数学などどうでもよく「爆発力」の方にこそ社会は期待を寄せるように思える。
有馬温泉の時分時は広々とした空間が実に気持ちがいい。
だから美味しい料理がさらに美味しく感じられる。
わたしたちが暮らす世界は広く大きく果てしない。
だから視野が狭いとその味を知らずに終わって実に勿体ないということになりかねない。