症状が出たのは遥か昔、大学生のときだった。
だからこの時期、二男が鼻炎になればわたしと同様、花粉症とみてまず間違いないだろう。
で、花粉症なら、わしお耳鼻咽喉科。
この日二男は事務所のお使いを終えた後、コナミスポーツで泳ぎ、そして鷲尾先生に診てもらった。
薬を処方してもらいこれで一安心。
卒業旅行が取りやめになって、明日東京に帰ると言うから夕飯を一緒に食べようと近くの焼肉屋で待ち合わせた。
向かい合って父子にて肉を焼く。
話は66期の今季受験組について。
浪人となって成績は伸びたはずだったが肝心の結果は芳しくなかった。
前列一列目であっても東大が駄目で早慶に引っかかり早慶が駄目で土俵際ギリギリ京大に受かってといった話があり、第二列に至っては皆が呆然となるような結果が幾つも続き、悠々と勝ち切るだろうとの予想とは裏腹、ほぼ全員が切羽詰まるような思いを余儀なくされて、実感として半数近くが不本意な結果を甘受することになった。
息子が言った。
駿台生は合格していたので、河合塾が梅田に近くそれで星光生同士で仲良く遊んでしまったことが仇になったのかもしれない。
仲がいいのはいいことである。
が、一歩間違えると、足並み揃えて皆が誤る。
そういう意味で何事も良し悪しということだろう。
そして息子は言った。
しかし、皆が皆、地頭がいい。
だから遠からず、全員がいい結果にたどりつき、社会に出てから成功する。
そんな思考にわたしは釘を刺す。
小器用に渡れるほど世間は甘くない。
戦いを比喩にするのは憚られるが、数ある戦闘能力のうち地頭などゴマメのようなものに過ぎないだろう。
そもそも地頭がいいから理数が強いといって、京大の数学がこうまで簡単になってしまうと英語を不得手とする星光生が寄って立つアドバンテージはどこにもなく、かといって灘の算数がかつて自在に解けた訳でも、結局、東大の数学で優位に立てる訳でも全くない。
つまり、多少の地頭など入試においてさえ役立つのかどうか覚束ないものであり、地頭といった能力を実用的な武器として備える者など一掴みどころか一つまみ程度しかおらず、だから、ほぼ大半の人間にとっては他の何かが明暗を分かつと心得ておくのが正解だろう。
例えば、こんな自由で便利で楽しい世の中にあってさえ、踏み迷わずまっすぐ突き進むような規律を我がものにした者など最強だろう。
己を律して成果を得て、それが心地いいから更にますます最強の度が増していく。
多少頭がいいくらいでは、そんな歓喜の自己増殖を繰り返す者らに敵う訳がないのである。
だから、大学生となってまもなく二年目、今回の結果から学び、そんな基本に立ち返る必要があるだろう。
大阪星光の中には蕉蕪園という史跡がある。
ちょっとした庭園になっていて、中一の頃、彼らはその場所をエデンと呼んで、そこに集まりよく一緒に弁当を食べた。
中学受験を終えたばかりの少年たちはそこで夢を語り、互いをエデンの戦士と呼び合って、そして将来の奮闘を誓い合った。
いつしか青年となり、クサくて照れて、エデンの戦士といった言葉を口にするなど今では小っ恥ずかしいにもほどがあるという話だろうが、仲間と過ごした場所があり、初心に返る言葉を共有しているというのはとても恵まれたことである。
エデンの戦士の戦いはまだはじまったばかり。
いつかこれからの奮闘を、おっさんとなった戦士たちが春のエデンで語り合うこともあるだろう。