業務の手伝いのため家内が事務所に立ち寄った。
皆に差し入れを配り、作業しつつ饒舌に喋るから事務所の空気が自ずと明るくなった。
一段落ついたところで和やかな雰囲気のなか、ゲリラ豪雨が収まる頃合いを見計らい一緒に帰途に就いた。
電車だったから、どこかで途中下車してちょいと一杯。
そう思ったが、家内がジムへ行くというから付き従った。
家でクルマに乗り換えて、ジムでいつものメニューをこなした。
水のなかで弛緩し泳いで疲労は残り滓も含めてすべて潰えて、なんて気分がいいのだろう。
バイクを漕ぐ家内を前方に見ながら、マシンを使って筋トレに励んで、思った。
これが日常。
あえて話題にするにも値しない、ささいな一場面一場面こそが確かなものなのだとの実感が込み上がった。
サウナとマッサージチェアで仕上げ、夕飯を済ませて帰ろうとなって、ひさびさ、ガーデンズの大起水産の列に並んだ。
先日、なにかのテレビ番組で京都が特集されていて、外国人に抜群の人気の寿司屋として大起水産が筆頭に挙がっていたとのことだった。
3組ほど待って順が来た。
ああ、懐かしい。
その昔、事あるごとにわたしたちは大起水産に通って、息子たちにとってここの寿司は最高レベルのご馳走だった。
そんな昔を懐古しつつ、わたしはビールを喉に流し込み寿司を頬張った。
ジムのあと、女房と気軽に一杯。
これもわたしの夢だった。
小さな夢であってもどれもがかなって、日常の枠のなか目白押しとなっている。
つまりわたしは夢見るような毎日を過ごしているということである。
なんとありがたいことなのだろう。