誰かを羨ましいと思う気持ちがない。
土曜日の午後、ジムのマッサージチェアに横たわり、わたしは音楽を聴いていた。
最近、Spotifyのお気に入りのラインナップを刷新したばかり。
いい曲ばかりが流れて、とても気分がいい。
それでふとそう気づいたのだった。
毎日毎日ぐっすりと眠れ、とくに昨晩など窓から吹き込む風がとても気持ちよく、ふかふかのベッドの寝心地は最上だった。
三度々々の食事もおいしく、カラダはよく動き、動けば動くほど満ち足りる。
人に恵まれ仕事は順調、日々の払いに困るようなことはなく、息子たちも元気に過ごし頼もしく、これといった心配ごともないから、こんなにちっぽけなわたしであり相変わらず下々の民であることに変わりはないが、できすぎた毎日といっていいだろう。
だから誰かに嫉妬したり羨望の眼差しを向けるといった現象の生じる余地がない。
友人すべてが自分よりはるかに優秀で豊かな暮らしをし、引き比べればわたしなど見劣りして格下にもほどがあるが、それもまた喜び。
友人らの成功が素直に誇らしく、もっとやっちまえと思うくらいである。
しかし昔からずっと一貫して嫉妬や羨望とは無縁だったという訳ではなかった。
わたしのことなので、わたしはそれをよく知っている。
時間を過去へと巻き戻しダウジングするみたいに各地点を探索していくと、びびっとある時点で時が止まる。
ある時期、わたしは孤独だった。
いったいなぜだろう、土日を独りで過ごすようなことも少なくなかった。
メンタルが減退気味だったから孤独に陥ったのか、ふとした拍子に孤独になってメンタルが減退したのか先後について記憶はないが、せっかくの休日、一緒に過ごす人がいないというのは実に淋しいことである。
そして淋しいと心の平和はかき乱される。
人間関係に不調があると、その不全感から人は代償行為に走りがちになるという。
何かモノへの依存が嵩じる物質依存や、おかしな行動に耽溺する行動嗜癖が生じ、いっときそれで心の穴は埋まるが対処療法でしかないから症状は深刻化していく。
いま思えば、わたしの場合はそれが酒量に顕著に表れていた。
日が暮れる前からビールを飲み、誰かを羨ましがったり妬んだりして淋しさを悪化させていたように思う。
つまり、不遇感から頭に火の気が生じて、心が徐々に黒く焼け焦げていたようなものと言えるだろう。
まもなく人間関係に恵まれて俄然元気になって窮地を脱することができたが、もしあのままだったらわたしはろくでもない心根の人間と化していたかもしれない。
幸いうちの息子らがそんな陥穽にはまるような気配は全くない。
しかしそれでも注意は欠かせないだろう。
よい流れがもし万一変わるとしたら、伴侶選びがひとつの分岐点になるように思う。
それが幸不幸を分かつ岐路となり、下手すれば不調が生じる。
頭上にクエスチョンマークを掲げるような忍従の日々は幸福からはほど遠い。
こんなはずではとの思いが、よからぬ心情の扉を開けかねず、そうなると、表情はますます曇って悪循環へと陥っていく。
いろいろなケースを見渡して、事前に選択の吉凶を見分ける方法はなく運だとしか言いようがない。
しかし、常日頃から羨望と嫉妬が体内に渦巻いているような人には巻き込まれぬよう、避けるに越したことはないと思う。