この日もノルマを全部こなした。
40分泳いだ後、各パーツに負荷をかけ延べ40分間にわたり筋トレに取り組んだ。
ああ、やり終えた。
そんな充足感を胸にサウナに腰をおろした。
あとは汗を流してマッサージチェアに横たわるだけであるから、登山で言えば「下り」が残されるのみ。
つまりこのサウナのひとときが、登りから下りへと切り替わる、一日のうちいちばん気分のいい時間と言えた。
サウナのなかにテレビがある。
見るともなしうつろに座っていたおじさんらが、あるニュースが流れたとき一斉に身を乗り出し画面を注視した。
出版社の元社員はほんとうに妻を殺害したのかどうなのか。
そんなニュースだった。
妻を絞殺し階段から突き落とした。
そんな容疑で逮捕された被告人は、妻は自殺したのだと一貫して主張し続けていた。
当日の模様がCG風の画像によって再現された。
産後ウツを発症していたという妻がその夜、包丁を持ち出し夫を追いかけ回した。
なんとか別の部屋へと逃げ子どもとともに避難していたところ、階段で首を吊って妻が自殺していた。
メタリックなCGの画像が陰惨さを増幅させて、サウナの一角に突如、修羅場が出現したようなものであった。
そして、おじさんらはみな一様に多かれ少なかれそういった類の修羅場に心当たりがあるのではと見て取れた。
閉じた空間のなか制御しようのない暴走が迫って、窮地に追い込まれる。
そのハラハラ感が共有のものであるから、サウナという密室が一体感に包まれた。
そんな窮地に立たされたとき、わたしたちは一体どうすればいいのだろう。
ニュースによれば被害者にあたる妻の両親は被告人をかばう発言をしているのだという。
被告人だけでなく、事態が差し迫った状況に至るまでに、両親にしても何かできたのではとの悔いが残っているに違いない。
サウナの中にやるせない思いを残したまま、ニュースは次の事件を取り上げた。
今度は老老介護の末の殺人だった。
認知症を患う85歳の妻が、夫の浮気を疑い襲いかかってきた。
もうダメだ。
そう思って妻の首を絞めた。
80歳の夫はそう供述しているのだという。
もはや息苦しくて耐え難い。
わたしはサウナの席を立ち、おじさんらも続いた。
いつしかわたしたちは繋がって、小さな密室からゾロゾロと這い出していったのだった。