家が広いから息子たちはその開放感のもと、のびのびと育ったと思う。
狭い家で過ごすより呼吸が楽で、悠々とした気持ちになれたはずで、だから子育てにおいて家の広さはプラスに作用したと言っていいだろう。
また友だちを呼んでもスペースに困ることがなかったから、それで交流も深まって、息子たちの友情を育むのにも役立った。
そして女房においてそのプラスはより顕著なものだったのではないだろうか。
昔、ある事業主に言われたことがあった。
男のアイデンティティは仕事にあって仕事が幸福感に直結するが、女性の場合はそれが家になる。
女性にとって家が暮らしの実質で、そこが豊かにならなければはじまらない。
いま思えばえらく昔気質な物言いだとも感じるが、その助言はうちにとっては正しいものだった。
もし家が狭く女房がそれを不遇だと感じていれば、その日々が積み重なって人格はネガティブに変貌し、その不遇感が影を落として家族の人生はまったく異なるものになっていたことだろう。
息子たちが巣立って広いスペースが役目を終えて、ふとしたとき、無用の長物になったのではとの思いが心をよぎるときもあったが、やはり依然としてその有用さは不変との感がここ最近は強まっている。
一人で過ごしたい。
人間だからなんとなくそう思うときがある。
家が広いと家に居ながらにしてそれが実現できる。
たとえばひとりが三階で過ごし、もうひとりが一階を根城にすれば顔を合わせる機会など滅多にない。
そうこうするうち風通しがよくなって、じきにまた二階で合流するといったことになる。
もし家が狭いとそれが圧になって息苦しいまま緊張感が高まって、どちらかが家を飛び出すといったことになりかねない。
そしていずれ戻るにしても、狭ければその窮屈さがネックになって、実はそれが主因で元の鞘には収まらないといったことになるのではないだろうか。
そういう意味で広さがもたらす効用は、単なる数量を越えて計り知れない。
息子たちは東京で暮らすが、気が向けばいつでもここに帰ってくることができる。
そして帰ってくれば、ここでほんわか快適に過ごすことができる。
いろいろあってしんどいと感じるときもホームに帰還すれば、もとののびやかさをここで取り戻すことができるのだから、ほんとうに恵まれた話だと言えるだろう。
だから、この好天の日曜日、広さが宝の持ち腐れにならぬよう、わたしは日中を家の掃除に充てようと思う。
窓から吹き込む爽やかな涼風とお気に入りの音楽がマッチして、息子らの帰ってくる日を思っての作業であるから、今日はとても楽しい日曜日になる。