業務を終えて駅近くにある「道場」へと立ち寄った。
このところ明石を訪れたとき、頭に浮かぶのはこの店に限られる。
いまや定番の店といっていいだろう。
カジュアルな居酒屋といった構えであるが、刺身が絶品でエビやイカのフライもかなりいい線をいっている。
それにさほど混み合わず店員さんの愛想もいいから過ごしよく、結局なんども再訪するといったことになる。
わたしが飲み始めてまもなく、隣席に足の不自由な御婦人がやってきた。
店員さんにケーキか何か手土産を渡していて、常連さんなのだろう、とても大切に扱われていた。
まずはビールをジョッキで頼んでゴクリと飲んでから、御婦人はずらずらと空で料理を頼んでいった。
その様子から、ここでの過ごし方の型が決まっているのだと窺えた。
歳の頃、60代で独り身、道場で飲むのが何よりの楽しみ。
そういった風に見えた。
ささやかな幸福が隣席においても花開き、わたしもつかの間、一人で過ごす時間を楽しんだ。
運動してノンアルで過ごす静謐もいいが、小さな喜びがじんわりと満ちる感覚のなか、つまり「快」が募る状況にて、一人何かを思って憩うというのも悪くない。
「快」と結びつくからこそ、自己回復のプロセスが活性化され促進される。
内側でよいものが波打って息を吹き返し、だからまた元気に明るく前を向くことができるようになるのだった。
そのように整って、自分だけで食べて帰る訳にはいかないので、家内のみやげも携えることにした。
が、家内の喜ぶ品は限られていた。
少し頭を巡らせて、菊水鮓が浮かんだのであらかじめ電話してから足を運び、上ちらしを持ち帰った。
このところやや食べ過ぎていたから、朝と昼をゆで卵だけで過ごしていた。
だから食べ足りず、お酒で自制心が弱まっていたこともあって、帰りに駅前のスーパーで特に食べたいわけでもない惣菜を手にとった。
家に着き、女房の機嫌を伺うようにしてキッチンにみやげを置いて、わたしは自室に引き上げた。
週末金曜、ひとり静かに憩う場所がある。
ほんとうにありがたいことである。