本屋の棚を見れば、そこがどんな土地か分かる。
たとえば六甲道や王寺にある何の変哲もないような町の本屋であっても、さりげなく重厚な内容の書物が並べてあったりする。
つまりそういった本を求める客がいるということである。
土地の知性がそれで大体推し量れるというものだろう。
そう言えば、その昔。
八尾の志紀図書館でしばしば本を借りることがあった。
家内の実家のすぐそばにあって、最初は家内に連れられた。
単なる町の図書館と思いきや、蔵書のレベルがなかなか凄くて驚いた。
もともと本への出費に躊躇いのない人間であったから図書館を利用することなどほとんどなかった。
が、ここだけは家内に勧められるまま結構利用することになった。
で、そんなことを思い出し、一体わたしが何の話をしているかというと、これまたやはり家内の話なのだった。
うちの女房はほんとうに世話焼きで、ほんとうにわたしによくしてくれた。
読みたい本があると図書館に予約を入れてくれ、昔はよく家内も実家へと足を運んでいたからそのたびに本を持ち帰ってくれた。
そんな面倒なこと、普通の人ならしてくれない。
なのにわたしはその便益を当たり前のように享受していたのだった。
もちろん享受したのは本ばかりではない。
弁当を届けてくれたり、疲れたときには耳つぼマッサをしてくれたり。
ことあるごとに女房はわたしにあれこれよくしてくれた。
他方、わたしはどうであったか。
ああ、情けない。
思いやりの非対称に立ち眩みさえ覚える。
結婚して今年で25年目を迎える。
連れ添う道行きのちょうど折り返し地点とみていいだろう。
昨日もその数字に行き着いたがやはり残りは25年ほど。
わたしが受けてきた数々の思いやりを拾い直し、後半にどれだけその非対称を埋め合わせることができるか。
わたしの人生の課題と言えるのだろう。
ところで、この志紀図書館。
ちびっ子だった息子たちにとっても馴染みの場所である。
しょっちゅう連れて行き、一体どれだけの冊数を家内は借りて息子たちに読ませたことだろう。
「埋め合わせ」はわたしたち男子三人、共通のテーマということである。