ほんとうにおいしいものばかり食べている。
日をおかずご馳走が続いて絶えることがない。
もうかれこれ何年、こんな生活が続いているのだろう。
人類の歴史を紐解けば、食べられるだけで僥倖といった話である。
食べられるどころか食べきれない。
しかも、すべてが美味。
この贅沢な状況は奇跡としか言いようがないだろう。
この夜は北新地だった。
寿し おおはたのカウンターに座って、改めて思った。
ここがトップ・オブ・ザ・トップ。
寿司のなかの寿司、他をまったく寄せ付けない。
頬張るごとに漏れなく。
はしたなくもわたしは感嘆の声を漏らし続け、めくるめくような人類究極の幸福にひたり続けた。
が、身の程はわきまえた。
他の客はこの日も医師ばかりだった。
ここに紛れ込むなど場違いなことこの上なく、出来るだけわたしは気配を消して小さく小さくうずくまって過ごした。
最後の締めのかんぴょうも素朴なくせしてなんて美味しいのだろう。
これまでの寿司体験をすべて塗り替える寿司のコースを味わい尽くし、わたしは確信した。
これ以上の寿司はこの世に存在しない。
で、その瞬間、わたしのなかで待ったの声があがった。
目に浮かんだのは、小学生のころ土曜の昼の食卓を飾った大量のいなり寿司だった。
ちょうど吉本新喜劇が始まる時間。
学校から帰ってくると、いなり寿司がうず高く積み上げられていた。
おかんの料理のレパートリーは数少なく土曜の昼はほぼ大抵いなり寿司だった。
わたしはしばし思い出にひたって、その幻のいなり寿司の甘く酸っぱいような味を懐かしんだ。
そして気づいた。
寿し おおはたはめったに食べられないが、母のいなりはもはや二度と食べることができない。
予約の手も挙がらねば、客もつかず値もつかない代物で、寿司は寿司でもそれを寿司と言っていいのだろうかという次元である。
が、涙腺まで緩む寿司はおかんのいなり寿司をおいて他にない。
この世でいちばんおいしい寿司を食べ、わたしの意識はその向こう、不滅のいなり寿司へと導かれ、おかんが作ったものにまさる食べ物など存在しないと今更ながら思い知ったのだった。