用事を終えた家内と肥後橋のピアノピアーノで遅めの昼食をとる。
魚介類の平打パスタがとてもおいしい。
あらかた仕事の片づいた午後、子らの様子を聞きつつ食べるものだから、皿に盛られた品々がさらにその美味しさを増す。
長男は帰る方向が同じ友人らと電車に乗り、並んで座って宿題しながらまたは本を読みながらぽつりぽつりと会話する。
駅で外国人を見かければ先頭に立って習いたての英語で話かける。
二男はこれぞ小学生というような素直素朴な男の子達の輪に加わり、家では見せないようなあどけない子供らしさを学校でのぞかせ、やることなすこと全部ほほ笑ましい。
同年代の女子らが、誰と誰がキャラを作ってるだのといった辛口の品評を加えつつ隠微に笑うのとは全く異なる。
食後、二手に分かれ私は事務所へ戻る。
陽気のなか四ツ橋筋を北上し、渡辺橋北詰の交差点で堂島川を渡る風の冷たさが心地よく川面眺めながら長い長い信号待ちをする。
今朝の冷え込みの余韻残す空気が時おり吹き寄せ、ついにはぞくっとカラダが震える。
長居し過ぎたようだ。
事務所を出て阪神高速に乗る際はいつもこの交差点で信号待ちする。
朝の時間帯が多い。
信号待ちの際に通勤者らの人波を運転席から眺める。
朝の表情は誰も彼も一様に険しい。
なかには笑顔で上機嫌の人もいるが数はいたって少ない。
これは日本独特な雰囲気ではないだろうか。
無数の頭部てっぺんから、混濁して蒸すような不機嫌な情念がふつふつ湧き出し、そのせいで空気が薄く霞むかのようだ。
アゴタ・クリストフの小説だったろうか。
主人公が朝の通勤バスで時計工場へ向かう。
時計工場が近づくに連れて、「いやだ」という職場への忌避感が増し募っていく描写はこちらの胸にじりじり迫ってくるほどに悲痛であった。
事務所付近に戻ってくる。
町の雰囲気が徐々に下町風情に変わってくる。
駐車場の空きスペースでバドミントンする中学生女子の横を通りすぎ、クルマに荷物を入れながら思う。
我々は心の本拠地を明け渡すべきではないのだろう。
家族や友人、趣味、取り組む仕事、好きな本や映画、生涯磨き上げると決めた能力、どれもこれも心の本拠地を成す主要素となる。
意に沿わないものを際限なく居座らせてしまえば、蒸し蒸し感が増して朝の景色が靄で覆われていくことになる。