電車に乗って帰宅する。
夕刻、混み合っている。
人をかき分け乗り込んだ。
つり革につかまり疲労のまま脱力し揺られているとメールが届く。
片手でiPhoneを見る。
ソウからだ。
今年の33期夏会では昔懐かし高校時代の英語の先生をお迎えする。
いつの間にやらお歳召された。
夏会の日はこの週末に迫る。
メールには先生に渡してもらいたいと文書が一通添付されていた。
ソウが以前何かの取材に応じ語ったことをまとめた記事であった。
テーマは「言葉の贈り物」。
電車が尼崎駅に到着する。
乗り換えのため乗客が一気にはけて、一時的に車内はがらんとなった。
雨はまだ強く降り続いている。
スクロールしながら添付の文書に目を通す。
夏会でお迎えする先生との懇談、遡ること遥か昔の場面から話は始まる。
ソウは懇談での先生の言葉を今も忘れていない。
当時はその意味を咀嚼できなかった。
しかし、今になって少しずつ、その言葉の真意が深く理解できるようになった。
言葉が先回りして、彼を待っていたようなものであった。
成熟が訪れてはじめてその意味が沁みてきたのだった。
言葉は心に呼応する。
読む技術は鍛えられても、その本質を汲み感応する心は、自分そのものの成熟にかかっている。
記事中、「まこと弟子を知ること師に如かず」という太宰の言葉をソウは引いて語る。
先生は、懇談の際、眼前の場面のずっと向こうを見ていたのだろう。
はるか遠くを見て、我が子に語る父のように彼に必要となる言葉を贈った。
だからこそその言葉は、彼のなか根付きゆっくりと発酵していったのだ。
私は何度も読み返す。
iPhone片手にじーんとしたまま人混みとともに電車を降りた。
分かりやすく明確に伝えるだけが言葉ではない。
その場で消えてなくなってしまうだけなら、言葉にいかほどの意味があるだろう。
傘を差し家に向かう。
33期それぞれが、各自の持ち場で奮闘している。
同じ釜の飯食った仲間が、先生のもと、この週末に帰ってくる。
それぞれの胸に現在進行形で生き続ける想い出を持ち寄って。
立ち止まり、了解と一言だけソウに返事した。