保護者懇談が行われている教室にかなり遅れて入ってきた男性がいた。
その男が曲者だった。
座るや否やくしゃくしゃと音を立てて乱暴に資料をめくり、話者の話を遮って不規則発言を繰り返しはじめた。
「ちょっとなに? 早稲田の政経って共通テストの受験が必須になったの?じゃあ他の私学は?」
話者のペースは乱された。
女性らしい柔らかな語り口はたちまち堅くなり、平静を失っている様子が見て取れた。
「お調べして後ほど回答させていただます」と対応しその瞬間はしのいだが、その後もぶっきらぼうな不規則発言が立て続いた。
「なに? ここよくわかんないよ、もっと説明してくんない」
総会屋が闖入したみたいなものであり、話者にとっては修羅場。
当初浮かんでいた笑顔は失われ、おそらくはパニック寸前、後でまた説明しますと言う声は微か震えていた。
もちろん会場を包んでいた和やかな雰囲気も変質していった。
参加者のうち女性は、礼を欠いた男の奇異な発言に怯えのようなものを感じていたであろうし、男性陣は暴力的な衝動と向かい合わざるを得なかった。
男がジャケットを脱いだので目をやると、体躯は貧相、首も肩も腕も鍛えられた片鱗なく、組み合えばねじ伏せるのは容易だろうと思えた。
話者の腰を折り続ける男の発言が数回続き、「ちょっと、あんた」と諌める言葉が喉元まで出かかったとき、わたしの隣に座る男性が声をあげた。
「みんなの邪魔になるから、質問は後にしてください」
ピシャリ毅然としたその言葉に、曲者男性は意表を突かれ、はいと頷いて押し黙った。
まさに鳩が豆鉄砲を食らったような表情であり、笑えた。
会場に安堵の空気がもたらされ、懇談会は元の平穏を取り戻し始めた。
肝心の話としては、東大なら英語や社会で取りこぼすと合格の脈がなくなる、数学は点差がつくから得意ならかなり有利、国語は結局団子で合否を左右しない、東大京大いずれも二次試験重視の試験だが、データが如実に物語るとおり東大ならセンターで少なくとも85%以上、京大なら80%以上を得点する学力がないと合格者に名を連ねるのは難しい、といった話だった。
続いて、京大生のチューターが受験直前期の体験談を語る場面になった。
会場に曲者がいるから、京大生は極度に緊張しているようだった。
そしてやはり案の定。
話が終盤に入って、会も締めに入ろうとする矢先、曲者男性が京大生に向かって「君は直前の判定はなんだったの、僕は関学出身なんだけどさ」と話し始めた。
ここで関学という言葉の出る意味は不明だったが、おそらく男性はそれをプライドにしているのだろう。
曲者男性は京大生に対し言葉を続けた。
「塾に高い金を払って、ネットを見れば載っているような話を聞いたって仕方ないんだよ、いまの時期E判定でも通るのかどうか、そういうこと教えてくんない」
この発言を受け、場内で関学の評価は一気に下がった。
バカではないか。
初見の学生にではなく占い師にでも聞くべき話と言えた。
会場に詰めかけた保護者の誰もが、何度生まれ変わっても、たとえ地の果ての滑り止めであっても、家族の誰にも関学など受けさせないと固く決意したに違いなかった。
そしてようやくここにきて、クレーマー係と見える年配の女性職員が現れた。
至らぬ点があり申し訳ありません、ご不明な点などすべてわたしが承りますのでと男性を手招きした。
こんな男に対しても丁重な扱いが必要だなんて、ほんとうにご苦労なことである。
クレーマーもどきを相手に馬鹿丁寧に対処することほど疲弊するものはないだろう。
仕事柄、わたしは付き合う人を選ぶことができる。
こんな変わった人など門前払いすれば済む話であるから、要らぬストレスに晒されることがない。
それがとても恵まれていることなのだと、そんな男の存在を目の当たりにして身に沁みた。
会場を後にし、夫婦で話し合った。
ほんとうに変な人だった。
あれが上司や仕事仲間やお客さんだと思うとゾッとする。
しかし、清涼な秋の空気に触れて歩くうち、少し違う視点も見えてきた。
不快ではあったが、もしかしたら、根っから悪い人という訳ではなかったのかもしれない。
発達障害など何かの症状があって不規則発言が出ただけであり、そこに目をつぶれば、案外いいところもあるのではないか。
保護者会に来るくらいだから家族がいるはずで、おそらく忙しいなか時間を作り懇談会の会場に駆けつけた。
何か子に有益な情報を持って帰りたいが、資料のなかには記載がない。
思ったことがつい口に出る。
それが短所だと分かっているが、時間が限られていると思えば、考えるより先、ああいつもの癖、質問が口をつく。
帰宅して、男性は息子に言うのだろう。
E判定でも諦めるな、塾の先生は通ると言った。
それを聞くため男性はわざわざ会場まで足を運んだのである。
だから、息子にそう伝えることは確実な話と言えた。
会場から遠く離れて、次第、わたしたちのなか優しい気持ちが回復していった。