KORANIKATARU

子らに語る時々日記

夕刻の過ごし方が変わる


仕事を終え帰宅する。
玄関に防寒具とウェアが用意されている。
これで3日連続、走ることになる。
やはりどうやら今後の生活は一変することになるようだ。

これまでなら仕事後は一杯飲んで帰るかサウナに入るかのどちらかであった。
それがひょんなことから「駆け足部」が我が家において結成され、わたしはその一部員となった。
主将がいて、メンバーは総勢二人であるのでわたしはさしずめ副主将というところだろうか、もしくは下っ端か。

ネックウォーマーと手袋、それに帽子を被って走れば寒さなど微塵も感じない。
夕刻の街を連れ立って走る。
主将の話は止まらない。

甲子園筋は古式ゆかしい街燈の灯をたたえ趣き深く日常の幕間でくつろぐかのような時間を過ごすことができる。
甲子園球場をぐるりと一周し折り返す。


家に戻ると部活終えた二男が一番風呂につかっていた。
先日渡した「ハピネス」に読み耽っている。
これおもしろい、扉越し彼はそう言った。

順に汗を流し食卓につく。

走ってカラダは爽快感に満ちている。
心地よい空腹感を覚えつつ揃って座る食卓の幸福感はまた格別だ。

次のディッシュの支度を待ちつつ新聞をめくって二男と話す。
脳の起源は5億年以上前との記事がある。
地上の全生物の原型が突如一斉に出現したカンブリア爆発の時期に近い。

一体そのとき何があったのであろう。

目を持つ生物が現れ、目の有無を巡って自然淘汰が加速されたのがカンブリア爆発だという有力な説があるらしい。

目が見えるようになってから様々な生物が現れた。
というのであれば、「光あれ」と神様が言って世界が出現したとの話に通じるようでもありますますもって神秘的なことである。


わたしはひとり映画を見始める。
TSUTAYAで借りた「天使が消えた街」。

イタリアで実際にあった英国人留学生殺人事件をモチーフにしているのだが、映画は事件の真相に向かっていくのではなかった。
着地点が見えないまま、映画は堂々巡りのように進んでいく。

シエーナの街の風景が息呑むほどに美しいのでなければ序盤で見るのをやめたであろう。

途中、その日読んだ天声人語のフレーズがふと頭に浮かび、映画と結びついた。
空回りし続けるこの映画があの手この手でキャッチしようとしているものが、「影」なのだと思い当たって腑に落ちた。

やたらな回数で「面影」が画面に浮かんでは消えていく。

死とは何なのか。
その不在とは何なのか。

犯人は誰なのだといった大抵の人が持つ関心を袖にして、根源的なテーマへと肉薄しようとする映画なのだった。

その日の天声人語にはこうあった。
「いとしい影は水にも映る」。
この映画が据えた主題が短い言葉に凝縮されている。

影を思って苦しいのはなぜなのだろう。

映画を見終えて、思考は映画同様に彷徨い始める。
映画がどこにも到達しなかったように、思考もまたどこにもたどり着かない。

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