金曜夕刻、事務所で待ち合わせし家内と帰る。
あまりにも疲れていたのでキーを渡し助手席に座った。
我が家において運転の腕前は私が現在ナンバー2。
ナンバー1とナンバー2を乗せたクルマが大阪を後にし西へと向かう。
ここ数日、仕事の依頼が相次いだ。
きっと神社で手を合わせたからだろう。
そのような会話を交わす。
不思議な事だが決まってそうなる。
メカニズムについては皆目見当がつかない。
一寸先は闇の自由業であるはずなのに、必ず前もって前途照らされスケジュールが埋まっていく。
十年以上も絶えることなく、進む数歩前に光が灯って導かれる。
まさに生かされている、というようなものである。
途中、ナンバー1がハンドルを大きく右に切った。
駐車スペースへと続く螺旋を駆け上がって、たちまち空きスペースを見つけ一発ドンピシャ、バックオーライ。
さすが、である。
わたしであれば、もっとひっきりなしにブレーキを踏み、場内をうろつき、やっとのことで空きスペースを見つけバック数回よっこらしゃと切り返さなければならなかったであろう。
エレベーターで1階へと降りる。
買物時間のピークは過ぎて、思ったよりも人がはけていてほっとする。
買い物嫌いで人混み嫌いなわたしでもこれなら耐えられる。
食品売場で並んで買い物しはじめたそのとき、電話が鳴った。
この時間帯に似つかわしくない名が表示されている。
何かあったのかもしれない。
金曜くつろぎの安らぎが消え去って息苦しいような感に襲われる。
そして案の定、楽しい会話となる電話ではなかった。
うちの職員がした記載に誤りがあったということだった。
軽微な内容だからと軽く受け流す訳にもいかないし、気にすることはありませんよ、たいしたことではないですよと、ミスした側の責任者自らがうそぶくわけにもいかない。
相手は気分を害している。
たまたま虫の居所が悪かったという事情もあるのかもしれない。
こちらに非があるのだから、弁解釈明は一切無用。
つべこべいわず、ただひたすらに謝罪する。
しかし誠心誠意謝れば、みるみる精魂尽き果てる。
この道何年という年季を気取ったところでそれは変わらない。
電話を切ったあと、がっくり肩が落ち、ため息が出て、誰が言い始めたのか知れないような定型句がついうっかりとこぼれ落ちる。
ああ、死んでまいたいわ。
金曜の夜、疲れ果てていた。
週が明ければ、怖気づくほどの煩忙が待っている。
そこに輪をかけるみたいに、半歩後退となるミスである。
この心象の瞬間風速下、黄土色した厭世観に覆われたって無理はない。
が、気力振り絞って、思い直す。
人は言霊の制圧下に置かれている。
誤った言葉遣いはその場で即座にたださねばならない。
舌の根乾かぬうちに、スローで巻き戻して、言い直す。
ああ、死んでまいたいわ、なーんてね。
言い直して時間稼ぎする間に認知も正す。
運動会の玉入れでその数を競うみたいに、我が人生、今日この日の悪いことと良いことを頭上に放り投げて比較する。
ミスがあって怒られた。
一見悪いようなことではあるが、しかしむしろこれは感謝すべきことであるとも言えた。
実害のないレベルで指摘受け再発を防げるのであるから事務所にとって願ったり適ったりのことである。
次に挽回すればよく、雨降って地固まるの例のとおり、巡り巡って好循環がもたらされる可能性の方が大きいと思え、そう思えばそうとしか思えない。
良いことについては今日も山ほどあって思い浮かべれば際限なく頭を巡る。
今朝食べたかき揚げうどんはなかなかであった。
仕事の課題は完遂した、よくやった。
昼のチャーハンセットも美味かった。
面談先で幾つも有意義な話ができた。
これから赤のワインを開けて夕飯だ。
家では子らが待つ、明日からは週末。
瞬間風速下から一歩逃れて広く着眼すれば、完膚なきまでに良いことの圧勝であった。
いくら定型句でも「死ぬ」など滅相もないということになる。
ちょっと天秤にかけるだけで、答えは明白。
やはりどうやら定型句の無闇な濫用については余程心しなければならないと言えるのだろう。
そこら転がる定型句が心象を正確に汲み取るということはなく、ほとんどの場合、安直な誤訳誤謬の的外れとなる。
それが習い性となれば、自身が何を感じ何を考えているのか訳が分からなくなってしまいかねない。
ネガティブな言葉の場合は致命的かもしれない。
どっぷりつかれば知らず知らず死神を引き寄せるようなものであり、自らの運気を暴落させてしまうことになりかねない。
言葉は未来を形作る、だから、わたしは言い換える。
状況に対し前向きにフィットするように、正しい言葉遣いをいつ何時も心がけねばならない。
わたしはわたしに言い聞かせる。
万事オッケー、万事よし。
開き直れば空気が変わって腐臭まじりの黄土色は清々しいまでに消え去った。
入れ替わりに週末へと向かう静か安らいだ時間が満ちてきた。