この日も眠りのお供は映画。
前夜に引き続きギオルギ・オヴァシュヴィリ監督の作品。
「みかんの丘」というタイトルのとおり舞台はみかん畑である。
静かなみかん畑の村がアブハジア紛争の戦乱の渦に巻き込まれていく。
戦火を避け多くのエストニア人が故国に引き揚げるが、訳あって主人公イヴォはその地に留まる。
ある日イヴォは負傷した兵士を助け、家で介抱することになる。
ひとりはジョージアの兵であり、もうひとりは対立するアブハジア側を支援するチェチェン人の兵士であった。
互い敵同士であるから、手負いであってもいがみ合う。
が、同じ屋根のした。
ともにすごし食事も一緒にするなか、やがては人としての交流が生まれ情も移り始める。
観る者はごく自然と気づかされることになる。
敵対する者らの対称性とでもいうのだろうか。
こちら側に愛すべきタコちゃんがいれば、向こうにも愛すべきタコちゃんなるものが存在する。
そのようなことである。
つまり、たまたま相対立する陣営に属していたから敵味方となっただけのことであり、もし同じ側にあれば、気の合う仲間であっても何らおかしくない。
だから終盤、そこに乗り込んできた者らとドンパチ撃ち合うシーンは、単なる銃撃戦を越えて悲痛であった。
それはもう仲間同士の殺し合いでしかなかった。
向こうの側にいる自分の親友。
その視力を与えてくれる映画であると言えるだろう。
ラストシーン、主人公イヴォがその地に残る理由が明かされる。
その老人も人誰しもがそうであるように愛すべき者に寄り添う存在であるのだった。
殺し合いをやめることのできない人の業への悲しみのようなものが最後にどっと噴き出した。