よく躾けられた執事みたいに寡黙に脇で控え、皆の話に小さく頷く。
それが飲み会でのわたしのスタンダートな振る舞い方であるが、場が硬いようなときには、先頭切って出力あげ饒舌な人間に成り変わることがある。
そうなると何かが憑依したみたいになって圧倒的に喋るようなことになってしまいがちであり、たいてい後でじわじわ後味の悪さがせり上がってくる。
呼応する相手があった場合はマシではあるものの、反応薄く噛み合わず引きの態勢で身構えられるような結果になったときには酔いなど消し飛び寒々しい思いに包まれる。
33期の誰かが言っていた。
飲み会があった日の翌朝、目覚めると必ず自己嫌悪に苛まれて苦しい。
わたしも同様。
変身して別人になることは多少なり尾を引くようなものなのだろう。
飲み会の場を後にしての帰途、意気消沈しつつ彼の言葉を思い出すことになる。
しかし、若い時ならいざしらずそうなるのを恐れてここというときにまで照れて俯き言葉少なな男であれば、自営で暮らし成り立たせるなどあり得ない話だろう。
意気消沈は付いて回るもの。
そう観念しその度ごと立ち直っていくしかない。
意気消沈を脱する手順などこの歳にもなれば心得たものである。
子らの小さな頃の写真でも見つつ家に帰ってしばらく過ごせば、心のスクリーンに映し出される景色がすっかり入れ替わって、まもなく復元となる。
実は家内はかなりのモノマネ上手。
家事しながら誰かを真似て喋るものだから聞いているうち気持ちも紛れてそのうち笑えて心も晴れる。
その芸風からもっと多くをわたしは学ばねばならないようである。