学校を終えた後、塾に寄る。
学校も別々なら塾も別々。
それぞれ相性というものがある。
学校だけで不足はないが、他に接点あるのも悪くない。
塾には塾の顔ぶれがあり刺激になるし、教わることは糧になる。
それは親でも同じこと。
昨日わたしは保護者として塾に行き、話を聞いた。
無知を知らされ多くを学んだ。
少子化の影響で大学入試は年々易化している。
漠然とそう思い込んでいたが、その認識は誤っていた。
時系列で数字を拾えば、上位大学は相変わらず狭き門であることが明白だった。
合格最低点も倍率も、かつてと較べて遜色ない。
大学によっては問題のレベル自体も高度化している。
一定以上の母集団があり、一定以上の過熱があれば最上位層のレベルについては一定以上が保たれる。
そういうことなのかもしれない。
最上位のレベルは単に世代人口に比例するものではないようだ。
これからは全入の時代、誰もが大学に入れるから勉強など不要。
そう高らかに親が謳ってしまうと、もしかしたら子には気の毒な話になりかねない。
ますます差が乖離していく二極化の、不本意な側に子を留め置く結果になるのだとしたら罪な話だろう。
文系学部について話を聞いたが、意外なことが幾つもあった。
大学ごとにセンター試験の配点比率が異なる。
それくらいは知っていたが、たとえばわれらが関西のプライド京大では全配点のうち3割以上もセンターの結果が加味されて、一方、東の横綱、東大や一橋では2割ないしそれ以下であるという。
そんな具体については全く知識を欠いていた。
イメージとしては逆だった。
手も足も出ないような難問ひしめく二次試験で雌雄を決する、そんな入試が京大だという思い込みがあった。
センターの比重が大きければ大きいほど、教科書レベルの穏当な学力がものを言うということであり、まんべんなく真面目に勉強すれば勝機を見いだせる、ということとも言える。
試験の配点比率が、招き寄せる学生像を映し出す。
そう仮定すれば、突出的な学力を有する者は、東の側に惹かれるということになるのではないだろうか。
突出が突出を求め相乗効果で更にそうなる。
私学で言えば早慶の英語も単に英語ができるからというだけではどうにもならず地頭を問うような意図が透けて見える。
つまり、受験科目が少ないからといって全く侮れず、これまたある種の突出がないとパスできない。
大きな流れの徴候は細部に宿る。
いちはやく東大志向を鮮明にしはじめた関西の中高一貫校もある。
将来、「飛車」や「角」といった役割担い得る突出の卵たちがこぞって東へと向かい、その流れに拍車がかかる。
一昔前なら憧れさえもって地元の大学を目指した者たちが、いまや心ここにあらずとなり、地元志向はもはや盤石の多数派ではなくなった。
時代は変わった、そう知る日曜となった。