金曜夜、無人の家でひとり映画を観る。
『否定と肯定』。
ホロコーストの否定論者が名誉毀損でユダヤ人歴史学者を訴えた。
幼少の頃からヒトラーに傾倒するこの否定論者は、押しが強く弁が立って執念深い。
感情的にこの否定論者に相対しては、記憶違いや曖昧な点などで揚げ足取られ、それで生じた劣勢に付け入られ、ホロコーストはなかったという主張を許すことになる。
更に報道通じ否定論者に理があるとの印象が流布されかねない。
幸いなことに、歴史学者側につくイギリス人弁護士らが優れていた。
否定論者のペースに巻き込まれるリスク排する戦略を練り上げた。
弁護人らは、いきりたつ歴史学者も怒り治まらないホロコーストの犠牲者らも証言台に立たせないとの方針を打ち立てる。
相手の土俵に乗るのではなく、否定論者の交友関係、これまでの言動、著作物を丹念に調べ上げて、ホロコーストを否定しなければならない動機や彼が実際に行った歪曲や捏造を炙り出せるかどうか。
勝訴できるかどうかはその一点にかかっている。
そう一致して、「押しが強く弁が立って執念深い」否定論者の足を止め的確にクリーンヒット決めていく弁護人らの仕事ぶりは見応え満点である。
映画を観つつ思う。
わたしなど大阪下町の生まれ育ち。
「押しが強く弁が立って執念深い」ような輩が難癖つけてくれば、熱い血潮で迎え撃ってしまいかねない。
そしておそらく、血潮で決着つくことは稀で、相手の術中にはまってしまうか膠着した悪状況を招くだけのことになるのだろう。
だからこのような「頭の使い方」の見本とも言える映画はためになる。
勝負には「抑制」が欠かせない。
例えば、サッカーやボクシングなど、スピードの作用反作用によって勝負の行方が瞬時に分かれるスポーツでは抑制を欠くとガードがら空き、その瞬間にしてやられることになる。
日常のシーンはもっとはるかにゆったり動くが、多かれ少なかれ同じことは言えるだろう。
映画『否定と肯定』において、被告側が勝訴に的を絞るのではなく、否定論者を懲らしめようとの衝動に駆られていたら、小気味いい勝利はなかったかもしれない。
まもなく長男が帰ってくる時刻。
ひとつ賢くなったような気持ちでわたしは風呂を洗った。