3月5日、下北沢にて長男の新生活が始まり、同月28日、西早稲田にて二男の東京暮らしが始まった。
そして、4月20日、わたしも新しい地にて業務を開始。
家内の持ち場が自宅だとすれば、四枚の皿が各地にて勢いよく回り始めたようなものである。
各自が日々交換する写真にその充実が映り込む。
いずれも絵になる一枚一枚が、これまでのプロセスを雄弁に物語る。
歩幅小さくとも倦まず弛まず。
身の丈程度には人生双六の歩をすすめ、子らは子らでここ一番なんとか大敗は喫せず踏み止まってきた。
写真の交換によって非言語に属す膨大な情報が各自の胸にダイレクトに届いて格納される。
その相乗効果で、皿は回って回ってまた回り、二歩下がってもしぶとく粘って三歩は進む。
もし、と想像してみる。
わたしがズボラな女房を娶っていれば、夫婦してそのズボラを強化して、皿は放置され埃かぶったままであっただろう。
子らはひ弱な置物みたい、口を閉ざしじっとうずくまったままだったかもしれない。
「いま」と「もし」。
この二つの家庭を見比べれば選挙速報に寄らずとも勝敗は一目瞭然で、加速度的に票差が開くと分かるから、ちょっとした選択の綾がもたらす差の激甚に怖気が走る。
幸いうちの家内は勤勉で努力家だった。
ほんの少しの真面目さが複利で効いて家族皆が救われた。
ところで周囲に目をやれば、33期の面々などご子息ご息女を含めて皿の回転数は途轍もない。
途轍もない者どうし、涼しい顔して互いに止まって見えているようであるが、年季の入った停滞者であるわたしから見れば、その躍動に目を丸くしてばかりである。
もしわたしが前記した「もし」という側の家庭に属していれば、「見える」ことすらなかった世界であっただろう。
そもそもの話。
途轍もない側の狭間研至や田中新二が手を差し伸べてくれなかったら、いったいわたしたちはどうなっていたのだろう。
こちらの方の「もし」にこそ怖気が走る。