KORANIKATARU

子らに語る時々日記

暴力について(その1)

休日の3日とも始発で事務所に来たがこれはもう単に習慣である。
始発で来て一仕事終えて歩いて帰る。
土日両日自宅まで12kmの道のりを歩いて帰り、年末年始の激務で蓄積された澱を掃き出し爽快感小脇に抱えてにこやか過ごす。

ニュースなどを聴きつつ歩くが飽けば音楽に変える。
ユーミンベストが入れてあってこれは子らにとっても聞き馴染んだお気に入りの名曲の数々であり、おまけに車内でも流すものだからここ1,2ヶ月の出来事はこれら曲たちを相たずさえて我々の中に刻印されることだろう。

ただ、ノーサイドという曲にだけ違和感を覚える。
もちろん名曲であり文句をつける気はさらさらない。
体育会ラグビー部の真相とポエジーな歌詞の乖離に何かこそばゆいような、釈然としないものを感じるというだけだ。

私の見聞の範囲でしかないが、体育会ラグビー部に限らずおよそ体育会というコミュニティは一部の名門を除き、甘く切ないような、風趣に富んだ湿地草原の景色などからかけ離れた世界に置かれているのではないか。
先輩にしばかれるとかコーチにどつきまわされるとか、試合が終われば酒盛りして裸踊りして後輩を殴る蹴るするとか、暇があれば博打するかオンナ探すかといった粗野粗雑な荒野が無限に広がっているだけというのが真実の姿なのでは、と思うのだ。
有無言わさず集団思考に染められ、個人が孤高保ち尊厳維持するなどとてもできる環境にあるとは思えない。
いわんやポエジーな世界など。

先日実刑判決を受けた柔道のメダリストはラグビー部ではないが、あのような在り方が体育会の世界の一面を如実に物語っていると直感した人も少なくないはずだ。
そもそも2連覇したからといってそれが一体何なのだ。
持て囃すほどの称賛に値することなのだろうか。
国技とは言うものの、たいした競技人口もないはずだし、日頃人目にも触れず感興もひかないローカルな狭い世界で、たまたまオリンピックだからと取り沙汰され国民の目が行っただけで、そんな程度の人品でさえ2連覇できるようなしょうもない世界だということがあからさまになったというだけなのではないか。
しょーもない世界の大して値打ちのない手柄を殊更取り上げ騒ぐお国柄も考え直した方がいい。

体育会の場は、戦うという臨場感が差し迫るからだろうか、人の黎明期、原初的にあったはずの暴力的本能が、文字通りの殴る蹴るか、性的に酷い目に遭わせるかといった形で発芽開花しやすいのかもしれない。
甘い蜜に慣れてそこに歓喜見出す体質が根強くあるとすれば、一人一人気をつけますといった話で暴力を根絶できるものではない。
放っておけば蜜吸う順番を強固に継承してゆくだけとなる。
人に噛み付いた犬を処分するように、暴力の悦楽に目覚めた人間は厳罰に処するという制度を導入するのが現実的なのだろう。

高校生を平手で何度も何度も殴ったバスケ部顧問についても、確信的に黒い悦楽に浸って殴っていたに違いないのである。
そうでなければ、何発も人を、しかも他所様の大事な子を殴れる訳がない。
もし自分の息子が、平手で何発もどっかのおっさんに殴られたのだとしたら、私は保護者として、ご先祖を代表して絶対に許す訳にはいかない。
うちの墓場まで引き摺ってきて土下座させるような話だ。

通常、暴力についてネガティブなトラウマが誰にでもあるから、手を上げるまでにブレーキがかかる。
しかし一旦外れると、人類はそのようにして生き延びてきた、相手を責め苛むことに快感を感じてしまう。
人がそのようなものでしかないと、知らねばならない。

人は本能的に、残虐性を備えている。
暴力に晒された恐怖があってその欲求を封印しているだけで、カギを開ければ空恐ろしいことを歓喜しつつやるのである。
ココロに猛獣がいるなんて猛獣に失礼だ、それ以上の爆弾を内蔵しているのだ。

そしてその爆弾のロックがユルユルのおサルもどきが21世紀も引き続き出没する。
稚戯のレベルなら実害と原始体験という学習効果をはかりにかけて多少なり得るものもあるだろうが、破壊力を増す年齢に差し掛かれば、そのような場やコミュニティは回避するのがもっとも賢明な選択となる。
なにしろそこで揉まれても未来に有用なものを何一つ得ることがないのである。

暴力と言うのは万国共通歴史通じてとてもおっかないものなのだ。
無知無自覚な者が多すぎる。

私の生まれ育ちは大阪下町である。
かつての少年の犯罪発生率世界一を誇り(胸を張ることでは決してない)、もちろんそれら札付きの少年がそのまま大人になるのであるから、その地の主要産業は暴力であると皆が自負するほど(胸を張ることでは決してない)粗暴な地域であった。
暴力が空気のようにそこらに漂っていたのだ。
つづく