KORANIKATARU

子らに語る時々日記

男女間に横たわるべき幻想2


そのまま千日前線で、一路西へ向かう。
難波を過ぎると人もまばらになる。

車両にはもうほとんど人がいない。
どこにでも座ればいいものをミテミテギャル二人が目の前に腰掛けた。
ミテミテ二人と私が対峙する格好となった。

パンツ丸見えレベルのミニスカートであり、抜き身の真剣を突きつけられたかのような緊張感を覚える。
ここで切っ先をチラとでも見れば不心得者の烙印を押されかねない。
席を移動するのも潔癖すぎる。

背景にミテミテギャルが入らない角度で首を固定させ、本のページに強く視線を釘付けにした。

ぎゃー、わっはっは、と憚る様子もなく大声で会話し嗤い転げる調子の二人であったが、突如、目の端でイレギュラーな動きが感じられた。

一人のミテミテが、片足を高く上げ、これみよがしに足を組んだ。
下卑たようなやかましい会話は続き、嗤笑が混じる。

もうますますこれで首を動かせない。
凝ったような重さを感じるが、動かせない。

また動きが感じられる。
組んだ足がほどかれ、今度は違う方の足を組む。
一体なんであんなに高く足を上げる必要があるのだ。

さんざめくような嗤い声はやまない。

玉川で私は電車を降りた。


エッチなページから目を背ける潔癖な少年を弄ぶように、その視線の前に手をかざし振り振りして反応をみた、という可能性も考えられるのかもしれない。

しかし、わたしはおっさんだ。
二人が私に一瞬でも関心持ち、からかったなど自意識過剰にも程があるだろう。

足を組みつつ単に換気していただけなのかもしれずまたは足を高くあげることで何らかの違和ある食い込みを補正していただけかもしれない。

そのように考察しつつ、私は岸田秀の本のことを思い出していた。


人間は本能が壊れた動物であり、生きるために本能の補完として人は幻想を構築してきた。
かつて高校生の頃、弟の書棚に岸田秀が並び、それを読んでしまった私は意欲の火をかき消されたような気がしたものであった。

理由も知らず生まれ、そして、幻想と格闘し、幻想に喜怒哀楽し、遅かれ早かれただの無となって死んでいく。
人生は何と虚しい徒労なのだ、と勉強も手に着かず相当期間しょげ返った記憶がある。

当時もっと面白いことに精神が沸き立っていれば、唯幻論など寄せ付けなかったのだろうが、ちょうどつけ込みやすい受験の時期であった。
そのような虚しい論理を受け入れる素地ができていたのだった。

取り扱い困難な書物であるので、君たちは、結婚し子ができるまでは読まない方がいい。
子ができてしまえば、「はあ、幻想?、ちょっと忙しいから後にしてくれ」と一瞥だけして取り合わず、距離置いてその論旨の汲むべきところだけを参照できるようになるだろう。


参考になる仮説は数多い。
その一つが、性的唯幻論だ。

岸田秀に言わせれば、性欲も恋愛も、全部幻想である。

そもそも本能が壊れている。
それをああでもないこうでもないと、補完するものを後天的に築き上げるしかなかった。

本能的な活動であれば通常のありふれた一交流であってしかるべき程度のものに、過剰なまでの創意工夫が凝らされ、趣味や理屈や様々なご高説や珍説が付加される。
食文化の比ではない。

女子にあっては関心などないもの、あってはならないものとされ、男子についてはまずは禁止され抑圧され神秘化された。
キリスト教の禁欲的取扱いと資本主義的精神がそのような性の位置づけを更に強固にしレバレッジをかけていくことになった。

性はそんじょそこらでは手に入れられない「価値の源泉」となり、更には階層化され経済活動のエンジンとなっていく。

それこそが全て、となる男が増えれば増えるほど、生めよ増やせよ勤労に励み、経済規模は拡大していく。

もしお金に意思があるのであれば、こんな好都合なことはない。

いい線いってる仮説ではないだろうか。
ふと我に返れば、若い当時に湧き上がるあれら好奇心は巨大な目論見のもとなされた洗脳の結果だと思えなくもない。

ミテミテギャルとの戦いは続けども、何だかよく分からないような幻想に屈してはならない。


で、トルストイである。
映画「アンナ・カレーニナ」において、リョービンとキティの物語が傍流に描かれる。

宮殿や舞台など極めて人工的な映像のもと描かれるアンナやヴロンスキーの交流と異なり、リョービンとキティの背景には大地があり、空があり、実質ある生活の匂いがあり、深い信仰の念が存在する。
二人は疑いもなく神の意思のもと結びついている。

衝動的で刹那的な幻想といったものに駆動されるのではなく、どうせ幻想であるにせよ、崇高な上位概念の共有のもと祝福される関係に恵まれることが幸福な男女関係の基本条件なのであろう。
それが強く印象に残った映画であった。