KORANIKATARU

子らに語る時々日記

3つの坂を走破するには伴走者があった方がいい


のどかな春の風景をズームし我が身に迫れば、てんやわんやと切羽詰まり髪振り乱す中年が映し出される。
真冬並の冷え込みが和らいだかと思えば、いきなり仕事がたてこみ忙しさは増すばかり。

時間に追われヒーヒーむせびつつ業務の間隙を縫って夢想する。
ここではないどこか。
どこか遠く誰も知らない場所で一人過ごす静謐の時間。

映画「ライフ」で、ショーン・ペンが扮した写真家みたいに山の奥深く、一人息を潜めて雪豹の出現を待つ。
緑と土の香はどこまでも柔らかく静けさだけがそこに満ちれば、時という概念が薄らいでいく。

電話ですよ、ツバメ君に声をかけられ、頭上浮かんだ山間の静謐は呆気なくはじけ飛んだ。
ああ、と余韻に浸る猶予もなく否応なく現実との格闘に引き戻される。


昼、家内がこさえたランチボックスを開けると、ベーコンエッグとチキンカツ。
どうやらまた糖質制限の日々が始まるようである。

春なのに、そう歌った柏原芳恵を思い出しつつ、お米や麺との別れを惜しむ。
在りし日の麺やお米の元気な面影が脳裏を駆け巡る。
春なのに、お別れですか。
数々の思い出深いシーンが頭に粘ついて離れない。

昼夜分かたずともにあるほど私はお米や麺と仲睦まじかった。
だからことさらこの別れが名残り惜しい。


先日お目にかかった年長の方がおっしゃった。

人生には3つの坂がある。
これは結婚式のお決まりフレーズだが、それが真実であると実感するのは40代後半からなのだよ。

週末満席の居酒屋の一隅で私は頭を巡らせる。
上り坂、下り坂、そして、まさか。
その3つの坂を我が身の来し方行く末を思い浮かべあてはめようとしてみる。

下り坂とまさかが、にわかにはイメージできない。
少なくともこれまでは上り坂だけの人生であった。

そして、ゾクリと背筋に寒気が走る。

なんと絶妙のタイミングで示唆された言葉であろう。

そうそう、これから。
下り坂とまさかは、私たちにこの先必ず訪れる局面であるに違いない。

上り坂ばかりがこの先もずっと続くと天下泰平気取り過ぎ、そのとき大慌てせぬよう、腹は括っておいた方がいい。
私たちはいつなんどき下り坂とまさかに訪れられても不思議ではない年嵩の中年となったのだ。


おっさんの年月も峠に差し掛かり、しかし、各種数値はまだまだあがって、その度主治医に注意を促される。
それでも深くは気にせず、この充溢の日が明日も明後日もずっと先々まで途切れず続くと安閑として時を過ごしている。

しかし、何であれ、起承転結。
始まれば、紆余曲折経て、いつかは終わる。

間に挟まる紆余曲折は間だからと軽くは見過ごせない。
時にはこれこそが曲者となりかねない。
だからこそ紆余曲折には世間の耳目が否応なく集まることになる。

ある研究によればママ友らの会話の俎上にあがるのは99%が他者の紆余曲折だという。
それほどタルタル旨味したたる具材なのであろう。


今夜、飲み会。
友達がいれば、の話だが、友達がいるのであれば、ちょいとキツ目の紆余曲折に訪れられたとしても、酒にまぶして多少は痛みを和らげることができるだろう。

持つべきものは友。
これこそまさに、紆余曲折を宿命づけられた我ら人間が神から授かった救いのロキソニン

「我が事感」という共感が友達から寄せられるのであれば、暑さ寒さも彼岸までのこと。

髪は「長い友達」と書く。
そのようなCMが昔あったけれど、これはまさに至言であって、髪も友も失くせばもはや生えてはこない。

そして、友達は学生時代にしか「育毛」できない代物なのである。
友達の友達は友達という増え方も確かにあるけれど、それはとっておきの友達があってこその話であってその生え方でどっさり増えるようなことはないと心しておくべきだろう。


昨晩寝床で二男が言った。
「今日友達が4人できた」

4本ではオバQに僅差で優る程度に過ぎない。
もっとフサフサを目指そうではないか。

中年なのに今夜私も一人、新しい友達を増やすつもりだ。