1
阿倍野の田中内科クリニック院長からタイガース戦のチケットをもらった。
ネット裏、ちょっとした特等席である。
感謝。
ちょうど中間テスト終了のタイミングと重なるので二男を連れて行くことにする。
受験勉強に勤しむ間、近所にあるのに甲子園球場どころではなく野球が醸す楽しげな賑わいを横目に塾へ往復する日々であった。
今回の観戦でその「横目」が矯正されることになる。
ちょうどバックネット裏。
真正面にどっかと腰掛け、我が国最高の球場で最高峰レベルの野球を心ゆくまで堪能できる。
甲子園で野球を見れば、グランドの土と芝の美しさだけでなく、潮の香含んだ浜風が頬なでる感触や、小気味いい打撃音や、頭上高く飛ぶ白球の軌跡や、ガタイ逞しい選手の俊敏で豪快で立体的な動きなどが、特別な季節の風物詩のように記憶に刻まれるだけでなく、記憶のスポンジはそのはるか前から発動し、球場へ向かうバスの車窓から見える夕刻の街並みや、観戦の友とする食材を買物する賑々しい光景、球場周辺を闊歩するタイガースファンがまるで一揆にでも向かうのかといった場面までを余すことなく吸収することになる。
甲子園球場を訪れるというのは、全工程、ワクワクウキウキの連続なのである。
だから、勝った負けた、というようなことは、瑣末な部類に入る。
現在タイガースが最下位であろうがどうであろうが、観戦においては、どうでもよく、それで甲子園球場の価値が下がる訳ではない。
二男と共有の思い出がひとつ増える。
それだけで十分に素晴らしいことなのだ。
2
帰宅した二男に甲子園での観戦について話す。
二男は喜色満面となった。
かつて連れ立って見た観戦の思い出を二男が語り始める。
おお、そうであったよな、と私も応じる。
そして、話題は、学校やら友人やらのことに移る。
甲陽の友達は宿題がかなり大変で、序盤から目一杯全開で勉強に取り組む日々だという。
一方、洛南の友達はたまに土曜日も休みとなって結構ゆとりがあるという。
それでどちらも塾に入った。
前者は課題消化の助力を得るため、後者はゆとりの有効活用のため。
それぞれ子の主観に基づく話ではあるが、大体、同じ程度の学力であろうから、そのような情報から個別の学校の方針のようなものを抽出し読み取ることもできる。
他所は他所、うちはうち、が原則ではあるが、友人の入塾情報は、どうやら中学受験が終わって学業が本分となる日常が戻ったという「報せ」と受け止めるべき話なのであろう。
まだまだ、能力のMAXを問われる時期ではないし、アクセントとして以外、塾は当分不要でいいと思うが、ぼちぼち本腰入れて勉強に取り組み始めようという「時の鐘」、そう解釈しておこう。
星光については、トーマス小崎研修館での生活がそのいい契機になる。
一定時間、規律もって勉強に取り組む日常の習慣がそこでセットされることになる。
考えてみれば、絶妙のタイミングだ。
伝統校ならでは、確固たる方法論が存在するのである。
タイガースを横目に、またまた地味で静かな日常が再開されることになる。