KORANIKATARU

子らに語る時々日記

火を噴く暴君の正体


南森町の階段を上がって地上に出た時、目の前を勤め人が行き過ぎた。
その足元に目が留まる。
丈が短く靴下の露出が大きい。

働き始めた当時のことを思い出し顔が歪む。

ある先輩が着るスーツはどれもこれも裾が短かった。
それが変だとわたしは様々な輪にまざっては俎上に載せ笑って語って蔑んだ。
当時バブルの余熱がまだ残り、世間同様、若気のわたしも格好ばかり気にするような薄っぺらな青二才であった。

あるとき、ある人に教えられた。
あの人が着ているスーツはすべて彼の亡父の形見の品である、と。

全身がこわばり、身の置きどころを失ったような思いとなった。
指差しあざけった自身のあさましさを恥じて悔いた。
わたしは丈の短さを笑い、その亡父を笑い、形見を身につける秘めた思いをも笑ったようなものであった。

事情知る者からすればわたしの軽口など怖気走るほどに不遜なものであっただろう。
そう思えば更にまた胸が締め付けられる。

思い出すことすら苦しい記憶が、眼前の何気ない一シーンを引き金として突如蘇った。
この機会に日記にも記しておかねばならないだろう。

誰かを笑うなどもっての他なことである。
天に唾するようなことにしかならない。
巡り巡って嘲笑は自身にきっちり返ってくる。


昨年の6月頃であっただろうか。
朝日新聞にバブル崩壊後の日本経済について概観する特集記事があった。

価格破壊が生じ「消費者王国」が出現した。
しかしそれは生産効率が上昇したことによって生じたのではなく、需要減によって引き起こされた値崩れによるものであった。
しわ寄せは賃下げや失業といったかたちで労働者に向かった。

結果、消費者という側面においては王様であり、一方、労働者という側面においては下僕という二重性を誰もが帯びる立場になった。

現状を読み解く上で非常に有用な視点であると言え、強く印象に残る記事であった。

そしてつい先だって、同じく朝日新聞に小説家の中村文則さんのインタビュー記事が掲載された。
同様の文脈で、王様でありかつ奴隷でもある日本国民の置かれた現状について小説家ならではの嗅覚をもって危機感が述べられ、非常に示唆に富む内容であった。
その頁は残し子らも読むようクリップに留めてある。

近頃かまびすしい不倫騒動やらのニュースに触れ、それに対する癇癪もどきの過剰な反応などを知るにつけ、なおいっそうその傾向が強まっていると思えて仕方ない。

労働の場において小突き回され鬱憤のようなものが常に充填され続ける。
そして所変わって、モノやサービスや情報の消費者として労働者である立場を離れた途端に火を噴くような暴君と化す。

そのような循環がますます強化されていっているのではないだろうか。

鬱憤ばらしの獲物は当事者だろうが部外者だろうが何だっていい。
要は溜飲を下げられさえすればいいのである。

現時点では暴徒化とまでは言えないにしても徐々に徐々に人心が荒れて角張った風になりつつあるのは確かなことであろう。
巨大なしっぺ返しに向けて、憎悪の預貯金が少しずつ少しずつ積み立てられているようであり末恐ろしい。

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