ちょっと交差するあの感じ、と言えば分かり易いだろうか。
例えば仮面ライダーであれば、1号でも2号でも、どちらもピンで正義の味方を張れる主人公である。
それぞれ立派に強いが、時に手強い敵が出現しピンでは苦戦を強いられ劣勢に立たされるということがある。
そのようなときに、颯爽ともう一方が援軍として現れ局面を一気に打開する。
手に汗握る少年らは拍手喝采、それをとても頼もしく思い心躍らせた。
「1号という主体」と「2号という主体」が交差するとき、何かが交わされ何かが生まれる。
とても贅沢な何かだ。
市井に生きるわたしたちは、仮面ライダーには程遠く、正義の味方どころか、ショッカーにひれ伏し、第一バイクに乗れず変身してもせいぜい酒場でだけといった体たらくであるが、日々カラダを張ってそれぞれの課題と戦っていることは確かなことである。
だから、1号と2号の間に生じる共感や連帯感のようなものが生まれる素地はわれわれの間にも間違いなく存在すると言っていいだろう。
友達とは何だろう。
それを説明するうえで格好の例となる一場面がある。
先日のこと、狭間研至と姜昌勲がたまたま同じ日に札幌を訪れた。
それぞれ仕事を終えた後で会い、やあと言葉を交わしそして肩を並べ一緒にラーメンを食べた。
この話を聞いたとき、わたしはそれをとてもいい絵であると感じ嬉しいような気持ちになった。
友達とは何か。
赤の他人だらけの大海原で、やあ、とエールを交わし合える仲ということになるだろうか。
子らに説明するとすればそうなる。
家族と仕事さえあれば、生きていける。
しかし、友達があった方が絶対にいい。
仮面ライダーは何人もいた方が盛り上がり、勢揃いすれば涙ぐむほど壮観だ。
仮面ライダーの教習所が中学や高校と言えるかもしれない。
そこで交差し、またいつか、交差する。
またいつかの交差の方が何倍も心に染みる。
中学と高校、そこはとても大切な場所なのだ。