KORANIKATARU

子らに語る時々日記

中学受験という過剰

各階ごとに立ち塞がる敵がいて、一人ずつなぎ倒し上へとのぼっていく。
塔を上がるに連れて相手の強さが増していく。

最後の最後にはこれはもう話にならないというほどの巨人が待ち受けている。
ブルース・リーの遺作となった死亡遊戯、クライマックスの場面である。

今朝起きると、わたしのベッドの端に二男がいた。
昨日は長男だったので、一日交替でめくるめく豪華キャストの我が家である。

その寝姿を見て、ふとそんなシーンが頭に浮かんだのだった。
ちょうど昨晩、中学受験の話を振り返っていたからだろう。

受験勉強にも死亡遊戯の構造がしっかりと埋めこまれている。
動機付けのためにも、最初の敵はほどよくお手柔らかな感じがちょうどいい。

それを打ち倒して次へ行く。
まるでゲームのような娯楽性がそこにある。

最初は軽い相手で順を追うごとに難敵が姿を現す。

中学受験本番を間近に控えた年末年始、二男と理科を一緒に勉強したことがあった。
こう見えて理工学部出身。
理数系に弱いはずがない。

しかしそれでもその取り組むレベルに驚かされた。

地層は東西に傾きまた南北にねじれ途中に断層があって目が回り、星は巡って地球は自転し、星だか誰だか分からなくなって、なおかつ、バネの先のおもりは水につかって浮力の影響で伸びが変化し、化合物は熱せられ濾過され混ぜられ、そしてまた熱せられ、地表の大気は山肌を駆け上がって雲となり雨が降ったと思ったら頂上を越え山向こうを駆け下りその気温を問われる。

なんてことなのだ。
思考の動体視力をこれでもか、そのフィジカルをこれでもかと揺さぶって試されるようなもの。
はちゃめちゃな動乱にさらされながらも冷静沈着、地に足つけて自らの頭だけを頼りに解を見出していかねばならない。

その過程はまったく生易しいものではなく、一緒に問題にあたるまでわたしはそのレベルの実相を知ることがなかった。
つまり長男のときは半可通な知識でもって応援だけしていたので、いい気なものであったということになる。

ラグビーならそのハードさは一目瞭然である。

プレー中、倒れた拍子に誰かの踵で顔を踏まれ、二男がかなり出血したことがあった。
顔面から血が滴り落ちるが、コーチらも周囲もどれどれといった感じで余裕の表情。

つまりラグビーがどのようなスポーツなのか、その瞬間、わたしは肌で感じ納得できた。
腫れ上がった顔のまま身内の結婚式に出た二男の当時の写真が残っている。
その面構えは小学低学年とは思えないほど逞しくて頼もしい。

このようにラグビーは分かりやすい。
しかし受験勉強の場合には子らがどれだけ負荷ある内容に取り組んでいるのかチラと見ただけでは分からない。

すんなり適応する子らもあってたやすく見える。
細胞分裂かまびすしく、ちょうど知的活性がぐんぐん高みにあがっていく時期である。
知ることは面白く、解くことが楽しくて仕方ない。

そんな一団に紛れれば、しんどいことのようには思えない。
ところがどっこい、とんでもないレベルの内容に彼らは取り組んでいるのだった。

社会人として冷静に見渡したとき、その域の知的出力を必要する局面などそうそうは見当たらない。
たいていの仕事は経験とそれに基づく知識があればこなせるようなルーティンから構成される。

そこに着目すれば中学受験でする勉強の内容など社会人として生きる上では過剰すぎる知的訓練だという見方も十分に成り立つことになる。

要はオプションのようなもの、そういった捉え方がもっとも適正なのだろう。
なくても事足りるが、パワー有り余っているのでラグビーで発散させるといったようなことと同じ類の話と言える。

オプションに過ぎないものを絶対に不可欠なのだと無理に押し付けられれば、だから当然苦しいということになる。

線が細く物静かな男の子をラグビーのグランドに放り込めば、これはどう見ても痛々しい。
一見して分からないだけで、それと同じような無理強いのミスマッチが塾という場所でも起こっているに違いない。

特に、実社会から縁遠く自身は何の訓練も受けてこなかったのに勝ち気な主婦などが受験の陣頭指揮を執った日には目も当てられないということになりかねない。

どのみち生きていればこの先たいへんなことだらけ。
せめて子どものときくらい思う存分、楽しくハッピーに過ごしていいものだろう。

嫌で苦しいことを強いられ、小突かれはたかれ罵倒されといった時間は大人でも耐え難い。
当の大人がまずはそれに気づかなければならない。