子の大奮闘ほど、目にして心震えるものはない。
だから試合があれば必ず観戦してきた。
小学生の頃からずっとそうで中学になってもそれは変わらなかった。
家内と連れ立って各地を訪れた。
僻地といった場所でも厭わず出かけた。
彼の試合は見応えがあった。
勝とうが負けようが見せ場があって、夫婦で語り草にするような名場面も少なくなかった。
そういう意味で彼もまた二男と同様、我が家のれっきとしたスターであった。
真剣な試合であればあるほど、本人は親が応援に来ることを嫌がった。
親の視線を意識してしまい集中力が散漫になる。
彼の言わんとすることにも一理あったが、試合が始まればどのみちバックヤードにいる親のことなど彼の意識からきれいさっぱり消えてなくなるのもまた確かなことであった。
だから躊躇も遠慮もなくわたしたち夫婦は試合会場まで毎回足を運んで、これでもかというほどに注視した。
入った中学にラグビー部はなかった。
学校ではどの部活にも関心を持てないようだった。
それでラグビー部結成のため先頭に立って動いたが、ラグビーに理解を示し力になってくれた先生が転勤してしまい、万事休す、前途は絶たれた。
地元地域のチームでラグビーを続けるほかなかった。
だから留学先の学校にラグビー部があったときは小躍りした。
酷寒はねのけ早朝も夕方もラグビーに打ち込んだ。
ラグビーを通じ確かな友情が広がった。
そんなときのこと、海を越え、長男からメールが届いた。
小さな頃、嫌がった自分を無理やりラグビーの練習に連れて行ってくれてありがとう。
礼を言うならわたしにではなく野口コーチを始めとする芦屋ラグビーの方々に対してであろう。
当時父としてラグビーが彼のアイデンティティの主要素を形成するなど、想像すらしていなかった。
まして高校生になってまでラグビーを続けるなんて夢にも思わなかったことだった。
高校生になっての初戦が昨日行われた。
折悪しくわたしは都合がつかない。
それで家内も留守番を決め込んでいたようだが、ラグビーママの血は抑えきれなかったようだ。
彼女一人、遠路はるばる、駅から先はタクシーに乗って試合会場にかけつけた。
試合会場からメールを通して実況がわたしに届く。
写真も届く。
結果は敗戦。
課題、反省点山積みの試合であったようだが、母としては、息子がそこを走り回っていただけで十分満足。
並み居る巨体を向こうに回し、戦い続けるかつてのベイビーボーイの姿は感涙ものであった。
だから長男はその日、試合から戻って山ほどもの飯を食わされることになった。
写真は家内からのもの。
ちょうどカメラ目線、少しばかりは精悍になった顔が頼もしい。