今週もやれやれ無事乗り切った。
例のとおり和らかの湯に寄って帰宅し午後10時。
ふと気付く。
最近は疲労と無縁だ。
働き詰めであった駆け出しの頃は休日前夜には限界まで疲弊して、肩腰足をさすろうがたたこうがだるさは拭えず仕方なくほぼ毎週マッサージを受けてバランスとるという困憊具合であった。
疲労が実体伴ってのしかかっていたようなものであるから、結構つらく、星空を眺めては何度も涙したものであった。
年々負荷は軽減されて、いまや全くしんどくないという所まできた。
何であれ過ぎ去ったものは懐かしく金輪際の別れとなるのは名残り惜しいと思うようなものだが、激務ばかりは例外だろう、おとといおいでという気にしかなれない。
夜は恒例、一人金曜ロードショー。
この夜は『鉄くず拾いの物語』。
舞台はボスニア・ヘルツェゴヴィナ。
ロマ人家族の暮らしが描かれる。
ロマ人と言えば、かつてはジプシーと呼ばれた少数民族である。
歴史を通じ酷い差別を受けてきた民族であり、いまだヨーロッパにおいて彼らへの差別感情は根強い。
登場する一家は夫婦と娘二人の四人家族。
この他、妻のお腹には赤ちゃんがいる。
夫の仕事は鉄くず集め。
廃品の山から鉄くずを拾い集めて換金を受けそれで生計を立てている。
稼ぎは知れている。
雀の涙。
ある日のこと、妻が腹痛で臥せった。
夫は妻を病院に連れて行く。
流産だった。
急ぎ掻爬手術を受けなければならない。
しかし、彼らは医療保険に入っていない。
手術代だという980マルクなど手元にあるはずもない。
分割で払うからとすがって頼むが、お金がないなら手術はできないと病院はにべもない。
なんとか手立てはないものかと夫は人権団体に事情を話しそこを通じて手術を実現させようとする。
が、やはりお金がないからと病院は相手にしてくれない。
家に帰ると料金未納のため電気が止められている。
雪降る寒さのなか電気なしで凌がなければならない。
妻は依然危険な状態にある。
現に存在した貧困の有り様がわたしの自室にありありと流れ込んでくるかのようであって胸塞ぐ。
このような切羽詰まった日常は、どこか遠い世界の遠い時代の話ではなく、わたしたちが暮らすこの日本においても実際に生じ始めている現実でもあるだろう。
そう思うと、週末金曜、ふやけた気持ちが正気に返る。
自分と無縁な現実など何一つなく、明日は我が身か誰かの身。
だから、何一つ助力できず指をくわえて見るしかなくても、知らぬ存ぜぬだとうそぶけない。
せめて知ることから始めねばならないだろう。
知るのと知らぬのとでは大違い。
知れば少なくとも調子にのった脳天気には陥らずに済むはずで、そこに問題があると知れば、いつか解決の糸口も見つかるかもしれない。
逆に知らねば、永遠の太平楽。
大はしゃぎし、誰かの気持ちを土足のままグサグサ踏みにじってしまうということもあるだろう。
解決どころか、問題はますますこじれるばかりとなりかねない。
現実を知れば知る程、頭が垂れて、身を慎もうとの良識が発動する。
人の在り方としてそうある方が望ましい。
時に映画は現実を知るための貴重な学びの教材となる。
身の回りの一歩外を知るために、おりおり映画観るのは人として必須のことと言えるだろう。