遠方から戻って残務を片付け引き上げる。
遅くなったので帰り道にある居酒屋に寄って食事を済ませることにした。
何を頼んでも美味しいので、物は試しとばかりいつもと異なるメニューを注文する。
隣の客に麻婆豆腐が運ばれてきたのが目に入る。
美味そうである。
チラと見る。
見ればますます美味そうに見える。
わたしも麻婆豆腐を注文したくなるが踏みとどまった。
隣のおじさんと同じものを追加で注文するなど、下手すれば下心を暗に打ち明けるみたいなサインに取られかねず、意味深な視線でも送り返されれば、そこに安住し難くなってしまう。
麻婆豆腐は諦め次回の楽しみに取っておくことにした。
家に戻ると家内はまだ起きていた。
食卓で向かい合ってちょっとした二次会になった。
あれこれ話す。
身に覚えのない難癖については、実害が及ばない限り対処する必要すらないだろう。
そんな話になった。
難癖の内容など妄想の類に近く、検討するに値しない。
難癖に目を奪われるのではなく、難癖が生み出される背景に目を向けそのメカニズムを理解することの方が重要だろう。
世にはたまたまの巡り合わせか招き寄せたのか、普通の人が当たり前に手にしている小さな幸福からさえ縁遠くなってしまった人がいる。
お利口だと褒められて育ってきたはずなのに、気づけば、若い頃に思い描いたイメージとは全く異なる道行きを余儀なくされている。
チヤホヤされるはずが、いまや自分が生きるため、どうでもいい誰かをチヤホヤしなければならない。
心の奥底では小馬鹿にしているような相手に朝から晩までかしずきひれ伏し笑顔を作り、思いつく限りのおべっかを並べて取り入っていく。
そして、この先、どうなるのか分からない。
なるべく考えないようにしているが、どうやら見通しは明るくない。
この身を守ってくれる人はどこにもいない。
もうクタクタだ。
そのような状況に置かれたら、時に自らの境遇に慄然となって癇癪起こし、そこに居合わせた誰かに八つ当たりするというようなことがあっても不思議ではないだろう。
現状への不本意感と先行きの不透明感が打楽器のように打ち合わさって怨嗟が生まれる。
その怨嗟は、発せられる側にとっては何ら意味を為さない。
耳を傾け汲むべき中身は何もない。
反応しても、得るものはない。
失うだけの引き算ゲームに巻き込まれるだけのこと。
腹さえ立たない。
厳然と存在する世の不条理を思い、黙してやり過ごすしかないだろう。