学校が違えば春休みの様相も全く異なる。
上の息子は3日ほど休みがあっただけ。
一方、下の息子は期末試験が終わって以降まるまる休みで、台湾で遊び、四国での部活合宿に励み、ひらかたパークを訪れ、友だちと映画を観て、いとことも交流した。
学生の本分は学業。
その意味で兄が通う学校には良心がある、わたしはそう感じる。
担うべき役割を真摯に問い、誠実に実行する。
そんな学校がある一方で、その役目を塾に丸投げする学校もある。
弟が通う学校も他と比べればかなり頑張っている方であるが、兄が通う学校にははるかに及ばない。
その姿勢の差は埋まるどころか開く一方。
やはりそれは認めざるを得ないだろう。
楽しく過ごし充実したかに見える弟の方は、一抹の虚しさを覚えているに違いない。
いろいろあったが特筆するほどの経験は限られていて、それならもっと勉強しておくべきだった。
その胸中が手に取るように分かる。
やはりどうやら、のびのびは無。
のびのびだけだと余白が茫々と広がるだけで、そこに成る実は何もなく、不安すら覚えることになる。
子には負荷があった方がよく、負荷が子の正気を呼び覚ます。
胸に手を当て考えれば誰もがそうであったはずである。
もし、のびのびのなか放置されていたら、どこへたどり着いたのやら背筋に寒いものが走るという人が大半ではないだろうか。
それで親は子が身を置く環境として、ほどよくぎゅうぎゅうである場を選ぶことになる。
つらくしんどいこともあるだろうが、それを乗り越えてこそ、負荷に平然、すっくと立って涼しげ笑う男になれる。
そう願い、一生懸命に取り組む人々がいる世界に向け子の背を押して、一方、いい気なもんだとグータラ過ごすような世界を近づけまいと心砕くことになる。
前者の世界に属せば幸い。
多くを学び有益な糧も得られるだろう。
翻って、後者の世界に接してしまうと、せっかくの意気地が緩んでしまい、これは男子にとって致命的な話になりかねない。
実際、緩みきった人々と接していると、こちらまで緩み出すというのは本当のことである。
よほど気をつけていないと、緩みはいともたやすく乗り移り、緩みが緩みを呼んで、一気に果てまで緩むということになる。
そうなると、まるでキンタマ取られた猫のよう。
前への踏み出し弱くなり、やがてまっすぐ歩くことすらままならなくなってしまう。
だから、良識ある親は心得ている。
ちょっとこの人はクルクルパーかもしれない。
そう思っても自然に振る舞い社交して、しかし留保を置いてそれ以上は付き合わない。
真剣なことは話題にしないし、そこを起点に交友を広げようとも思わないし、第一に、子を近づけない。
付き合いには、表面的なものと実質的なものの2種類がある。
子を持つと、この人はバカなんじゃないか、と思う人と付き合うことが苦痛になってくる。
言わずもがな。
表面的な付き合いには、何の意味もない。