いろいろな人と交流がある。
自分ではそう思っていた。
が、かなり恵まれた偏りの中にあるのだと友人に指摘され気づいた。
その友人は趣味や仕事を通じ非常にバラエティに富んだ人間関係を形成している。
だからだろうか、友人の話はいつだって面白く活力に満ちている。
一見わたしも同様、しかしつぶさに見れば大違いであった。
仕事を通じわたしが付き合うのはほぼ全員が事業主である。
日頃顔を合わせる友だちはほとんどが星光生で、まれに幾人か大学の同期が混ざるのみ。
その他には子らを通じて得た知己もあるが、限りなくほぼ同種同類。
なるほど、よくよく考えて周囲を見渡せば、知的にも経済的にもかなり上位の層の者ばかりにわたしは取り巻かれている。
人と暮らす犬は、往々にして自身を人間だと思い込む。
それと同じ。
わたしも何か勘違いしてしまいそうな環境に置かれているも同然と言えた。
わたしは人としての常識をわきまえている。
そう思っているが、実は偏りの中にあって、日々偏りが強化され、結果、非常識な心得違いをしている可能性も否定できないだろう。
頭を冷やして凝視すれば等身大の自分が見えてくる。
元はと言えば、大阪下町の路地で育った野良犬のようなもの。
それが何の拍子か、心優しい「人」に拾われ、人みたいな暮らしを得て、人として振る舞うようになった。
野良犬仲間の目線で見れば、そこはあんたの居場所じゃないよ、というような話であろう。
そして、浮かれてご満悦なその様子は、わたしが毛嫌いするある種のキラキラ女子と同根とも言える。
キラキラ女子はキラキラな人としか付き合わない。
もっさい人間は見下し嘲ける対象にしか過ぎず、近づこうものならおとといおいでと邪険に跳ね除け、キラキラだらけの砦を形作る。
分かりやすいキラキラにしか反応しないのだから虫みたいなものであって人として薄っぺら。
それにメッキもエクボといったように、キラキラのためなら嘘さえ厭わず小ウソまみれなくせして子には嘘つきは泥棒のはじまりと教えるのであるから愚かしい。
そのようにわたしはキラキラ女子を冷眼視しているが、まるで同類相憐れむかのような図が浮かび上がる。
キラキラ女子の虚栄虚飾と、犬のくせして人になりきる欺瞞的な態度に大差はない。
そんな仮説も的外れではないように思える。
だから、気づいたときが吉日。
偏った人生はほどほどにし、原点に立ち返って心を新たにすべきであろう。
ここで家内のことが頭に浮かぶ。
交流の幅広さで、わたしは太刀打ちできない。
子らの学校を通じた交流も盛ん活発であるし、地域の顔でありヨガ仲間もいればアロマ仲間もいて、学生時代からの付き合いも長く継続し、旅に出れば新たな友だちが次々できる。
お高く止まることがないし、フレンドリーで心優しく好奇心も旺盛。
何より人との出合いを喜び、付き合い自体を楽しむから、当たり前のようにそこに良好な人間関係が生まれることになる。
だからだろう。
家内の話はいつだって面白く、いつもはつらつ意欲的で活気に満ちている。
多種多様な人との交流がエネルギーを生むとみて間違いない。
とても家内の真似はできないが、いまある交流とは別の場所、ほんとうのわたしがいたはずの世界にスポットライトを当てることくらいはできるだろう。
まだ見ぬ友人がいたる所にいる。
彼らと出合わず言葉も交わさず済ませるなんて、幾つもの世界を失うようなものであるから勿体ない。
人生は有限。
そう実感しはじめる年齢に差し掛かった。
無理せず自然な流れで野良犬としてもほっつき歩き、尻尾振ってワン、と至る所で心を開いてみようと思う。