今にも雨が降り出しそうな曇天の朝、家内とともに駅へと向かった。
9時過ぎだといつも座れるがどういう訳かこの日の電車は混み合っていた。
電車に揺られて運ばれて、一緒に事務所に出勤して思った。
なんて健全な同伴出勤なのだろう。
書類を受け取り家内は外回りへと元気に出かけていった。
途中、33期の貴治くんが院長を務める西田辺のきじ歯科で歯のケアを受けるという。
頼りになる人物ばかりで33期は構成されて、ほんとうにありがたいことである。
夕刻、家に戻ると家内が料理の仕込みを終えたところだった。
では、と一緒にジムへと赴いた。
わたしがプールで泳ぐ間、筋肉量の増減などについて家内は月初のカウンセリングを受け、担当してくれたトレーナーとかなり気が合ったようで今後彼女にパーソナルを受け持ってもらうことに決めたという。
なんて素晴らしい。
かねがねわたしは思っていた。
日常的に会話する相手は複数あった方が絶対にいい。
だから、パーソナルの受講に諸手を挙げて賛意を示した。
エステやヘッドマッサや美容の先生や33期の豪華主治医メンバーなど随時に家内はいろいろと話を聞いてもらっているが、その頻度はとても日常的といった域にはない。
ヨガ仲間やママ友らとの交流についてなら日常性を帯びるが、しかしなんというのだろう、そこでは「きちんと戸締まりのされた会話」が交わされて、心開いてというのとは異なる類のコミュニケーションが繰り広げられているように思える。
つまり肝心な話が俎上に載せられる訳ではない。
そういう意味で、裏表なく日頃から話をする相手はわたし一人に限られて、その偏りは双方にとって決して好ましいことではないとわたしは常々思っていたのだった。
複数の対話を通じそれらの関係が相対化されてはじめて、各個別の会話の良い部分に光が当たる。
だから会話のルートが一つしかなければ、ことである。
もしそこが陰れば悪循環を止める手立てはなく、会話は澱んで沈痛なものとなって行き詰まる。
つまり、出口がなくて救いがない。
週に数回、カラダのケアというテーマで、元気ハツラツとした若い女子にあれやこれやじっくりと話を聞いてもらう。
そんなコミュニケーションが家内のメンタルをいま以上に明るく元気に前向きに先導してくれるに違いない。
そのようにして光量が増せば、これまで不明瞭だったところもよく見えるようになる。
この夫、案外いいやつじゃないか。
そんな気づきが得られる契機になるのでは。
まあそういうことをわたしは期待しているのだった。