KORANIKATARU

子らに語る時々日記

そこら中に横たわる不気味の谷

文化の日、久々家族揃って外食にでも行きたかったが、翌日も長男が朝から晩まで塾であり、精神的なエネルギーのロスがないよう、やはりしばらくは静かに過ごそうと家で食べることとなった。
それで事務所の帰り、名店川繁でうなぎを一尾土産に買って帰る。
一番大振りなものを選び三千円を財布から取り出そうとすると、兄さんが1,870円だという。
一瞬戸惑う。
いつもなら2,500円くらいはするはずだった。

帰途、得した気分で考える。
その店には値札も何もない。
うなぎの嵩を兄さんが見て、その場で値段が決められる。
そして思い当たる。
売りを担当する兄さんによっては、値段を決める要素に人の身なりも入っているのではないか。

2,500円だったときはスーツ姿であった。
昨日はジャージ。
スーツ姿だとうなぎが高くなるのかもしれない。
単に素人目には分からない正確無比な目分量で値段が決められるのかもしれないが、験を担ぐみたいに今後はジャージで買いに行くことにしよう。

それにしても、味は素晴らしい。
炭火焼の奥深い香ばしさで、長男は何度も舌鼓を打ち、ああ人生の最後を迎えるなら浜名湖でウナギにまみれて死にたい、と口にしていた。
想像すれば、酸鼻極める地獄絵図である。
頼むから、バカは休み休みにしてほしい。
受験が終われば、うなぎの消費量日本一の地、大晦日には蕎麦ではなく鰻を食べるという本場、信号機より鰻屋の方が多いという噂の、津まで出かけ、最上のうなぎを食べようではないか。

さて、人を見て値段を決めるという話で言えば、芦屋などは、あらゆる相場が割増し高止まりしている地域の代表格だろう。
誰を見ても身なりがいいし、高くても口を尖らせ苦情など言わず、むしろそれでこそ安心だとお金を放ってくれるので、ごく自然に物価は上昇傾向を帯びる。

パン屋、ケーキ屋、イタリアンetcどれもこれも確かにレベルは高いが、それらを圧倒的に上回るレベルの大阪の店を寄せ付けないほどに値段が高い。
それでこそ成り立つ地域ということなのだ。
先日、福島のダ・ジャコモで家内とランチを食べたが1人2,000円で大満足な内容だった。
芦屋なら1人3,500円になるのではないだろうか。

聞くところ、ジャージ姿でウロウロするものなど見かけない芦屋でも、ちょっと風変わりな世帯もあるそうだ。
4人家族が皆茶髪、賃料収入で暮らしているらしく両親は働く素振りなく、夜10時に家族総出で夜な夜な遊びに出かけ、奇想天外でラディカルな名を持つ中学生と小学生の姉弟は悪名高いちょっとした札付きだと言う。
もちろん、地域特性で大半の生徒はそのような相手を意に介さないので、子らが勢力を持つことはなく、浮きに浮いた存在として、迷惑がられているに過ぎない。

これが大阪などであれば、そういった荒くれに呼応したり対抗したりする流れが生じ、よどみに浮かぶうたかたでは済まず、互いに悪い方へ切磋琢磨して、下手すれば大人でも手がつけられないような大きな潮流を生むか、あるいはぶちぶちに淘汰されるだろう。
朱に交わって赤くなるというのはそのような土壌があってはじめて成り立つ話で、そのようなものはそのようなもので当たらず触らず距離を置き、寄せ付けず受け付けずやり過ごす見識の地域もあるということである。

不気味の谷という言葉は、異質なものがこちら側に同質化していく過程で親近感がどんどん増して行くが同質化の直前に増加していた親近感がV字のように一気に落ちるポイントと説明できるだろうか。
ちょっと違う、という感覚は強い違和感を引き起こすのだ。
遠く離れた異質には親しみを感じても、少し身近なところにある異質はとても奇異に映る。
そのような不気味の谷を前にし、積極的に嫌悪感を露にする者もあるだろうが、向こうから見れば、こちらこそ不気味の谷ということもある。

単に心にできた地形である。
谷底見てあれこれ文句を言う人などいない。
谷底に無闇に近づいたり足を取られたりしないよう注意して、そんなものなのだと、あるがまま風景として捉え意に介さないのが賢明なのであろう。