三日間に渡って二男と過ごし8月が終わった。
最終日の仕上げは西宮の熊野の郷。
二男と並んで湯に寝転がる。
かつては頻繁に通った熊野の郷であるが仕事場の近くにもいい風呂があって近頃は足が遠のいていた。
久々浸かるが、やはりいい。
二男とあれこれ話し込む。
電車のなか、ピコピコとゲームに興じる大人がいるが、何で大人なのにゲームをしているのか。
二男がそう聞いてくる。
大人かどうかは見かけによらない、職場に着けばゲームはできない。
せめて電車のなかでは「最後の自由」を謳歌したい。
それで名残惜しむようにゲームに夢中になっているのだろう。
自由の満喫の仕方は人それぞれ、それこそ自由。
その人にとって最高の過ごし方が、隙間時間に垣間見える。
もし許されるのであれば、ゲームにずっと耽溺していたい。
大人に見えようが子供であろうがそのように感じる人が実際にいるのであるし、赤の他人がとやかく言うことではない。
熊野の郷、湯の香りはここらで一番であろうし、照明の加減もちょうどいい感じで仄暗く、広々と開放感あふれる空間をほどよく落ち着いたものとしている。
気持ちがほぐれて楽になる。
帰途コンビニに寄るがちょうど配送の谷間。
目当てのサンドイッチは姿形なくはけていた。
8月31日と言えば野菜の日。
仕方ないのでサラダを買う。
明日から学校が始まる。
夏が終わり日常が戻ってくる。
試験があり宿題があり部活がある。
先輩注視のなか試合に出る緊張の場面もあるであろうし、試験が迫って勉強に追われるような場面もあるであろう。
自分の心の動きを遠くから眺めて、「自らに何が起こっているのか」読み解くようにすると、「状況」に馴染みやすくなって、ずいぶんと気持ちが楽になる。
本当のことである。
請け合ってもいい。
一人きりでその瞬間の感情に埋没するのではなくその状況について解釈していけば、つまり静か実況中継するように自分に目を注げばたいていの場面で落ち着けて腰の座りが少しはマシになる。
それがおそらく日常から学ぶ最善の方法であり、そのような習慣が備われば単なる無為でしかないような時間でさえ味わい深くなって、苦しいような時間でさえその意義を感知できるようになる。
何かを意識し学びそれを伝えるような存在が人間というものなのだろう。
だから、状況から学ぼうと意識を稼働させれば、心が静まる。
いずれは時間に遊ぶ達人の域に至る。
そうなればゲームなど手にする必要もなくなることだろう。
自宅に到着する。
私は一階、二男は三階へと向かう。
マンションの前で別れるみたいに互いに手を振る。
サラダとビール。
たまたまの巡り合わせで生まれた組み合わせであるが、悪くない。
階上の照明に照らされる裏庭の下草を眺めつつ静かな食事のひとときを過ごす。
秋が訪れ、新しい食の世界が切り拓かれる夜となった。