昨年の今頃のピリピリとした記憶が依然居座る一月初旬である。
ちょうど一年前は伊勢を訪れた。
その光景を思い浮かべつつ残り福の恩恵に与ろうと事務所近くの神社を参拝する。
下町の参道は昔ながらの露店で埋め尽くされている。
客を誘うおっちゃん、おばちゃんの声はすでに枯れ始め十日戎がフィナーレに差し掛かっていることが窺える。
この活況が夢幻であったかのごとく、人で混み合う路地はこの先一年に渡って静まり返ることになる。
侘びしいような物悲しさにまもなくここら一帯が覆われる。
うなぎ釣りの露店に人だかりができている。
水槽に泳ぐうなぎをフックのついた釣り針で引っ掛けて釣り上げる。
見事釣れれば現物か蒲焼きがもらえる。
生まれて初めて目にする光景だ。
二男の血が騒いだようだった。
目で促しトライさせた。
様々な風体が釣り糸を垂らしている。
一人声を上げてやたら熱中しているおじさんの呂律は回っていないが、それが酒のせいなのかそれとももっと異なる薬物のせいでなのか見極めがつかない。
二人組の少年は引っ掛けたうなぎを弱らせようと水槽の前を左右にせわしなく動き回っている。
そのなかに混じって二男が糸を垂らす。
やかましいおじさんを意に介さず目障りに動く少年を避けながら辛抱強く慎重にうなぎに針を寄せていく。
ほどなく釣り針が引っかかった。
うなぎとの息の読み合いが始まる。
長期戦は覚悟のうえ。
小刻み不規則に糸を揺すって少しずつダメージを与え続ける。
うなぎはあくまでポーカーフェイスだ。
頭脳戦の様相を帯びてくる。
あるとき反応が弱まった。
手応えが全く消えた。
うなぎは運命に従いもはや無抵抗となったかのように見えた。
二男は満を持して引き上げる。
周囲の視線が一斉に二男に注がれる。
しかしその瞬間、渾身の力を振り絞ってうなぎはカラダを大きく反転させた。
まさに、待ってましたと言わんばかり。
針が大きく動いた一瞬をうなぎは逃さなかったのだ。
針は外れ、糸が切れた。
二男は呆然と立ち尽くす。
敗れたのは二男であり、勝ったのはうなぎであった。
二男は悔しがるが、それで十分と私は慰める。
第一、もはやそのうなぎは欲しいものでも何でもなくなっていた。
その蒲焼きを口にしたいなどと思えるはずもなく、釣れたところで持て余すだけのことであった。
日頃は恋慕の対象の蒲焼きも、その真実の姿を観れば、百年の恋も急降下。
現物をまじまじと見てしまうと食欲など雲散霧消する。
すっぱいブドウの例えではなく、本心からそれは食べたいと思えるような代物ではなくなっていた。
それに、結構残酷だ。
水槽に放たれるのがうなぎではなく人間だったらこの図はどう見えるだろうか。
呂律回らないおじさんや走り回るやんちゃ坊主が先の尖った釣り針を投げ込んでくる。
彼らが水槽の側の気持ちなど忖度するはずもない。
まさに地獄絵図ではないか。
二男にそう問いかける。
人間だから殺生とは無縁ではいられないけれど、せめてこれは残酷なことなのかもしれないと思う気持ちくらいは失ってはならないものだろう。
受験だって同じである。
我が家は進学する学校の合格を得た段階で有無をいわさず受験日程を終了させたが、第一志望に受かった後まで受験を続ける一群があった。
塾が勧めるのであろうが、そんな馬鹿なことはやめろと親なら言うべきことであろう。
そのような一群については学校も織り込み済みでボーダーラインの合否に影響はないとは言うものの、その場に干渉すること自体が予測不能の影響を生むと思うものからすれば、必死な立場の者を高みから愚弄するような、ひどく悪辣な行為に思えて仕方ない。
罰当たりなことはよした方がいい、と言えばアニミズム的に過ぎるだろうか。