KORANIKATARU

子らに語る時々日記

常識という感度を研ぎ澄ませる

夕飯後、和室で二男とくつろいで過ごす。

突如雷鳴が轟いた。
雨戸シャッターを開にする。

雨戸がゆっくりと上へと持ち上がる。
大量の雨が容赦なく窓を打って視界は不鮮明であるが、間断なく空が光って和室を照らし雷鳴がそれに続く。

二人で並んで寝そべって明滅する空を眺め、轟音までの秒数をカウントして過ごす。
いまのは2号線あたりだろうか、いまのは西宮浜あたりだろうか、など当て推量で話し合う。

弩級大迫力の俄か雨であって夏らしい。

天がお怒り。
昔の人はそう考えた。
この自然現象、人が有する語彙の範疇で言うなら怒り以外に浮かばない。

しかし我々はいま21世紀を生きていて、私も二男も天が怒っている訳ではないと知っている。
でもなかには、昔の古びた解釈を過剰に受け入れ、それを前提として考えてしまう人がいる。

ことのついで、二男にそんな話をし始めた。

前時代的なロジックを受け入れる素地が身に沁みついていて、うっかりすれば我々はそういった言説に影響されてしまう。

例えば前世の因縁。
まったく関わりない、当然身に覚えもない遥か彼方の過去との因果でもって現在が語られたりする。

また例えば先祖の功徳。
顔も知らなけければ素性も知らぬ、ほとんど他人とも言うべき先祖の功徳で、現在のわたしたちの幸不幸が関係づけられる。

少し考えれば分かるだろうが、そんな理屈を敷衍させようにも、筋が通らない矛盾だらけの話となるのは火を見るより明らかだ。
すべての現象はあまりに複雑多義的であって、過去の何かでもって一義的に語るなど、できるはずがない。

積み重ねられた過去があり、刷新され続ける現在があって、その二つがせめぎ合う潮目に我々は置かれている。

つまりはそこに生まれる「常識」だけが、拠り所だということになる。

例えば、ご先祖がしてきたように神様仏様を敬って手を合わせ頭垂れることくらいは自然にできるが、いくらなんでも肩入れし過ぎであろうという因習めいた事柄については留保する、そういった感性を常識という。

前時代的なロジックは人にデフォルトで備わっているものなので、浅慮な小理屈を鵜呑みにし思考停止すれば平然と時代錯誤に陥り、荒唐無稽な不埒不遜を強弁する傍迷惑な存在となってしまいかねない。

常識に寄って立つバランス感覚を研ぎ澄ませることだけが防御策になる。