たいへん楽しく充実した飲み会であった。
世界は狭く、たまたま右隣に座った先生がきょうクリ院長と面識あって、これ幸い、話のまくらに困ることなく会話が弾んだ。
左隣の先生とも今回がはじめての顔合わせであったが、その余勢のまま楽しく語らうことができた。
また、久々にカネちゃんとも話ができた。
近況を交換しあって、わたしは一次会で場を辞した。
帰宅すると長男と二男がリビングで向かい合って勉強に取り組んでいる。
両者とも試験期間真っ最中。
長男の方は残り一日、ラストスパートに入ったというところであった。
試験直前にラグビーの試合が入り勉強時間の大半を練習に割かねばならず、試験準備としては惨憺としか言いようがないが、だからといって降参と諦め投げやりに流すということはなく、まがりなりベストを尽くしているようである。
一週間ぶりに飲んだお酒はまわりが早い。
子らより先に一眠りする。
深夜目覚めて階下に降りる。
リビングでは引き続き照明が煌々と輝き、長男が試験勉強を継続中であった。
ここ数日と同様、すでに制服を着ている。
夜中2時。
丑三つ時の制服姿だ。
本人曰く、これで眠気を回避できる、ということである。
かつて子らには、眠くなったときには上半身ハダカになればいい、そうすると睡魔を撃退できると教えたことがあった。
ハダカになれば体内の危機センサーが起動して覚醒が訪れる。
まどろみようがない。
ところが、重厚なガタイとなった彼らには効き目がないようだった。
上半身ハダカでも頑丈な衣をまとうようなもの。
平気でスヤスヤと眠れてしまう。
それで長男が編み出したのが制服着用作戦だった。
その姿を見ていろいろな思いが去来する。
子どもなりに気力振り絞る様を頼もしいと思う一方で、かなりたいへんな負荷に晒されているのも確かなことであって憐憫の情も禁じ得ない。
彼を含めその友人らは元気ハツラツ、どんと来い、もっと来い、といったガッツそのものの面構えの連中であるが、学校中を見渡せば適応できず苦しい日々を送る者らもあるに違いない。
想像してみる。
もしわたしが資産家だったなら。
子どもはのびのびとさせるのが一番、と考えたかもしれない。
強迫観念に苛まれるかのようなラットレースとは無縁な環境に子を置き、ストレスレスで呼吸の楽な日々、好きなことを極め、好きなことのなかで充実を見いだせる青春時代を過ごさせたいと思ったであろう。
しかし、想像はそこまで。
まごうことなくわたしは一介の労働者に過ぎず、資産家どころか下から数えた方が早いくらい、明日をも知れぬ寄る辺ない身でしかない。
つまり、どちらかと言えば、必死のパッチ。
必死のパッチが生きるためのエンジンであり、必死のパッチなくして明日はない。
鳶が鷹を産むことはなく、カエルの子はカエル。
せめて子には少しでも燃費良く性能のいい必死のパッチエンジンが搭載されますようにと願うのが親心というものだろう。
たいへんだとは思うけれど、そうでしかないのだと現実を直視すれば清々しいような境地にも至る。
心頭滅却すれば火もまた涼し、という通り、必死のパッチも慣れれば結構心地いい。
エンジンさえかかれば惰性で進むのだから、いずれ必死のパッチがボチボチという語と同義になる。
あと何日、と指折り数えて過ごした試験期間中の日々をわたしもありありと覚えている。
大人になっても同じようなものである。
奮闘気質を血肉化することだけが我が身を救う。
いまのうち、必死のパッチを磨きに磨く。
誰かの道具になったり利用されるためではなく自分のために馬力を備える。
それが最強の味方となっていく。