日曜の夜、夕飯を終え帰宅すると長男が言った。
日本はいま北朝鮮に銃口突きつけられているようなものである。
それもピストル一丁でといった話ではなく、カラダ中の急所という急所に無数の銃口が向けられているといっていい。
断末魔の絶叫とともにその引き金は引かれるのかもしれない。
彼の地から放たれたミサイルが見知った街を一瞬にして火の海にし、あるいは、搭載された化学兵器が阿鼻叫喚の地獄絵図を現出させることになる。
可能性はゼロではない。
もしそうなれば、と彼は言う。
混乱が混乱を呼び関東大震災のときそうであったように、彼の地の民を虐殺するような暴動が生じるのかもしれず、その反対、此の地に身を潜めるテロリストらが更に追い討ちかけ殺戮を繰り広げるということも起こり得る。
その様を想像し慄然としたのか二男は黙っている。
わたしはと言うと、それがフィクションじみた話にしか思えず、フィクションとしては上出来の怖さであって十分に肝は冷えるが、そんなことが起こるはずがないという楽観の方が強く、迫真性ともなったイメージに結びつけることができない。
この地震群発列島にあっていつ未曾有の南海トラフ地震が発生しても不思議ではないと言われ、言われる度に恐れ慄きはするが、どこか内心、起こるはずがないと無根拠に思い込んでいるのに近いような話かもしれない。
なぜなのだろう。
極限の最悪については切迫感もってイメージするのが難しい。
多少の最悪はいくらでも想像できるが、究極の最悪となると映像がそこで途切れて後が続かない。
くぐり抜けてきた危機の記憶はDNAに内在していても、くぐり抜けられなかった危機についてはデータがない、ということなのだろうか。
わたしは息子らに言う。
何があろうと君たちを守る。
しかし、どうやって。
映画のアクションシーンみたいなものは頭をよぎるが、リアルなイメージはまったく浮かばない。
一回こっきりの、ぶっつけ本番。
子らに語った決意は揺らがなくても、一瞬で藻屑となるのであれば出番もへったくれもあったものではない。
1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる。
その予言とやらを真に受けて不安を覚えた人もあったようだが、大半の人はバカな話だと茶化し失笑していた。
今回は、ノストラダムスとは訳が違う。
恐怖の大王は実際に配備され、その出番を待ち構えているようなのだ。
それでも、楽観DNAは揺らがない。
リスクに焦点を合わせようとしても無理がある。
2017年4の月を無事やり過ごし、その先も延々と続く日常の絵だけが頭に浮かぶ。
そしてようやく気付く。
DNAがどうのこうのという話ではないようだ。
危機自体が未知であって、そのすべてにわたって無知蒙昧。
つまりなるほど、これをこそ平和ボケと言うのだろう。