作業机の端に積んである新聞の束が消えている。
目にした瞬間、気が楽になった。
肩の荷が下りたようなものである。
日頃、新聞を読む時間はない。
ぺらぺらとめくり、後で目を通そうと思う箇所だけ抜き取ってあとは捨てる。
しかし選り抜きの紙面だけでも一週経てば結構な嵩になる。
週末にそれを読まねばならない。
ついついそう自らに課してしまって負担になっていた。
一種の強迫観念のようなものである。
だからツバメ君の申し出は渡りに船だった。
そこに置いてある新聞、持って帰っていいですか。
最近の若者の例に漏れず、彼も家で新聞をとっていない。
新聞を持って帰ろうなど向学心の現れかと思いきやそうではなく、子どもに食事させるときの敷物に使いたいというのが理由だった。
なるほど全国共通、我が家も同じ。
特に小さな男の子は食べ散らかすので新聞があれば便利。
新聞の用途の第一位は今も昔も敷物であって不変なのだった。
新聞がなくなって、これほど気が晴れるとは思わなかった。
あるから読まねばと思うだけで、なければ読まずに過ごせてその分まっさら自由な時間が得られるのだった。
ぶらり本屋にでも出かけじっくり付き合う本でも選ぼう。
本来活字との交流はそのようであるべきだろう。
チラと目にするだけならiPad で追うので十分だ。
家では朝日新聞をとっている。
ゆっくり目の出勤の際はざっと見出しにだけ目を通し、これはと思う記事は抜き取って子らが読むよう食卓に置く。
子らも少しは眺めているようであるから一定の有用さはあると言えるが、なければないで誰も困らない。
事務所に出勤する際は日経新聞をコンビニで買うのが習慣になっている。
しかし朝の出だしの勝負時、流し読みできれば上出来で積もり積もって週末に負担が寄って集まるということになる。
ふと思う。
幾つかのコラムが好きで日曜だけ毎日新聞を選ぶが、新聞は日曜に買うこの一紙だけで十分足りるのではないだろうか。
それで敷物の分量も満たされる。
後は必要に応じiPadで記事を覗けば十分だ。
近頃、隣家も新聞購読をやめたと聞いた。
新聞と縁の深そうな高学歴一家である。
合理的に考えれば誰もが行き着く結論ということなのかもしれない。
新聞があって当たり前。
そんな時代が終わりつつあるのをいまわたしたちは目の当たりにしているのだろう。